チョコレート日和というやつですか。

彼とあたしの初めの一歩・2










鈍い色の空が全てを押しつぶすようにして、私達を見下ろしている。
鉛色をした雲が幾重にも重なって、厚いカーテンのようだ。


……というわけの分からない現実逃避はやめようと思う。
私語一つ無く、ただチョークの軽い音と、椅子を動かす小さな雑音だけが響く教室。
そんな中で、あたしはこれ以上ないほどのピンチに陥っていた。

「紫藤、どうした。早く前に出て答えを書きなさい」
「……は、はい、あの、でも」

そう、何故か―――決してあたしの日頃の行いが悪いわけではない――先日の宿題で一番難解な問題 を、あたしが解答しなくてはならないことになったのだ。
いつも通り1限目が始まると同時に教室に入って来た先生が「おはよう」だとか「席に着け―」とか そんな言葉も無く『問一・山本、問二・鈴木、問三―――……』と生徒を指名し始めた。
挨拶も無く、まず前回出された宿題の答えあわせをするのはいつものことだ。
眠いな、と思って欠伸を一つ。その瞬間だった。

『問五・紫藤』
その言葉があたしの耳に飛び込んできたのは。

それまでの眠気なんかさっと霧散して、ただ呆然と先生を見詰める。
まさか、このあたしが?と。だって先生だってこのクラスで最も数学を苦手とするのがあたしだと いうことを理解しているはずだ。
簡単な問一ならあたしでもどうにかなるが、問五!
結構な進学校で、しかも難易度高めの教科書を使用しているため、問五といえばクラスのトップ 軍団が総力を結してやっと解けるくらいに難しい―――とあたしは思う。というか今回なんて秀才軍団に順々に聞いてみても全員が「分からない」なのである。

こんな難しすぎる問題あたしに解けると思ってるんですかこの先公め!
なんて言えるはずがない。無理無理無理。この問題を解くのと同じくらいに、無理だ。
先生だって絶対に間違いなく私がこんな難解な問題を解けるはずが無いって分かってるはずなのに、 どうしてこんな虐めをするんだろう。
そんなことを考えながら、ごくりと喉を鳴らした。

ちなみにこの虐めという表現はあながち間違ってはいない、と思うのはあたしだけではあるまい。
実際にこの先生、男尊女卑という昔の悪習を幼い頃から脳に刷り込まれていたようで、男子は優劣種、 女子は愚劣種だと思っているフシがある。
掃除だって男女区別無くやるのが当然だというのに―――むしろ女性の手荒れの苦労や非力さを 考慮して男子だけで掃除してもいいくらいだ――何故か男子が掃除をサボっても文句一つなしだ。
ただし女子がサボろうものなら翌日職員室に呼び出されて叱責を受ける。
しかも軽く1時間は越える、という超拷問的な叱責。噂によるとセクシャルハラスメントまで 行われるらしく、本気で気持ち悪いし恐すぎる。


そんなことをつらつらと思い浮かべ、心の中で先生に対する罵詈雑言を吐き連ね、そしてとりあえず どうしようかと考えてみる。
「紫藤」
暗に『まさかお前に解けると思っているのか?無駄な時間稼ぎをやめて、さっさと解けませんでした と正直に告白したら許してやる―――はずがないだろうが、フハハハハ』と言われている気がする。
唇を噛んで、どうしよう、と思考を再び高速回転させた。
ちなみに当然の如く、解決策は全く見つからない。

固く握った拳にはぐっしょりと汗をかいていて、しかも強く握りすぎたせいで真っ白になってしまっていた。
ちなみに前回の授業で出された宿題は5問。
あたし以外の4人はもうすでに回答を黒板に書き始めている。
ただ、あたしだけが椅子に座って、冷や汗を流している状態だ。

もう嫌だ!分かんない分かんない分かんないよー!
そう心の中で叫んでみても意味などあるはずがない。先生は意地悪くこちらを見つめたままだし、 クラスの人々もみんな見て見ぬフリだし。
あたし、大ピンチ!なのである。


数学といえば凛さん!数学だけは毎回学年トップを争う凛さんが今此処に居てくれたら!
と思ってはみても凛さんは本日風邪でお休み。
こうなれば正直に「分かりませんでした」と言うしかないのはきちんと理解している。
でも!でも、だ。絶対怒られると分かっていて、絶対大量の宿題が出されると分かっていて、 もしかしたらセクハラまで受けると分かっていて、誰が正直にそんなこと打ち明けられるものか!

前に出て、答えを黒板に書いていた人もパラパラと自分の席に戻ってゆく。
その際あたしに申し訳なさそうな視線が飛んでくるのだが……いや、うん、分かってるから。
別にあなた達に責任はないから。
と、一つ嘆息して、椅子から立ち上がり先生と目を合わせた。真っ直ぐ、じっと。
一瞬たじろいだ様子を見せた先生だが、すぐにまた意地の悪い笑みを浮かべ始めた。
腕を組んで、にやにや、としか形容できないような先生はどこからどう見ても下っ端のチンピラか何かだ。

そんな先生に数学を教えてもらうのは何だか癪だが、仕方ない。
とりあえず今優位な立場に居るのはこの教師だ。と、小さく眉を顰めて、「先生」と口を開く。
「どうした」
「……解けませ」
「紫藤さん、ルーズリーフ忘れてるよ」

解けませんでした、と正直に伝えようとしたあたしの勇気をスパーンっとホームランして、 わけの分からない発言をしたのは、なんと、先日あたしに対する虐め計画を打ち出した二色君であった。
我が校のプリンスこと二色君は、今度はいったい何を企んでいるのだろう。私は少し怯えつつ、二色君へと視線を向けた。少し離れた席で、二色君はいつもと同じように微笑んだ。

「はい」
と差し出されたのは一枚の紙。薄っぺらいルーズリーフである。
「は?……ル、ルーズリーフ?」
何の?と首を傾げると、 二色君は再び不思議発言をしてきた。
いわく。
「ごめんね、俺が借りたままになってたみたいで。せっかく解答できたのに、このルーズリーフが 見当たらなくて黒板に書けなかったんだよね?」
らしい。

正直『何言ってんの、この人。あたし二色君にルーズリーフなんて貸したっけ?……いやいやいや、 まさかそんな恐ろしいことするはずがないよね。じゃあ何故?まさか若年性痴呆症?こんな症状まで 出るの?忘れるだけじゃなく、間違った記憶を生み出しちゃうの?』と思ってしまった。
その疑問が顔に出たのかもしれない。
二色君は苦笑して、ルーズリーフを1枚手にしたまま、机の間を縫ってこちらまで歩いてきた。
その歩き方まで優雅だった、なんていうのは本当にどうでもいいことなんだけど。
そうして、はい、と極上の笑顔付きでそれを手渡してくる。

―――何?

眉を顰めて、これはいったい何だ、と訝し気に二色君を見やると、もう一度笑顔でごめんねと謝られてしまった。
美青年は何をしてもカッコイイ。謝る姿もこれだけカッコイイんじゃ、怒るに怒れな―――……じゃなく、 あたしは彼に謝られるようなことをされた覚えは無いのだが。

「……紫藤、早くしなさい」
先生は先生で怒り狂っていて、けれど二色君にちらりと視線を向けたときに 戸惑ったような訝しげな表情を見せた。
多分『今まで誰も女生徒虐めを邪魔してこなかったのに、何だコイツ、貴様も虐めの対象に してやろうか』という意味だろう。

「何度言わせるつもりだ。早く前に出なさい」
「は、でも」
「紫藤さん、ごめんね?」
念を押すようにそう言った二色君。言外に『早く前に出て書かなくちゃ駄目だよ』と窘められている ような気がする。

正直二色君が何をしたいのかさっぱり分からなかったが、先生もこちらを睨みつけてくるし、クラス メイト達はハラハラとこちらを見つめているし。
仕方ないので、あたしは渡されたルーズリーフを手に、黒板へと向かった。
頭の上に盛大な疑問符を浮かべて。

そして、見たことはあるが理解のしようが無い公式がそこかしこに散りばめられ、むちゃくちゃ丁寧な 字で書かれたこの答えは合っているのだろうか?そう思いながら、私はチョークを手に取ったのだった。



カツカツと軽い音をたてて、黒板にルーズリーフに書かれた解法を書き写してゆく。
正直自分でも何書いてるんだかさっぱり分からないが、それでもまあ、何も書かないよりはマシだ。
背中にクラスメイト達からの視線が突き刺さるのが凄く苦痛だ。
うぐぅ、と心の中でぺしゃりと地面に伏した。

まさか、これさえも二色君からの虐めの一環かもしれない、という思いが頭の中をぐるぐると 周るが、だがしかし二色君だって自分人気を落としてまで……
あたしのことを虐めたいわけがないと思いたい。

だって、これでこの答えが間違ったりなんかしてみろ。
明日には『二色君が数学の問題を解けなかったんだって!』とか『紫藤さんに恥をかかせるためにわざと 間違えた答えの書かれたルーズリーフを渡したんだって!』とかいう噂が流れるに決まってる。
……いや、そんなはずがないな。きっと噂の内容はこうだ。
『心優しい二色君が馬鹿なクラスメイトのために頑張って超難解な問題を解いてあげたというのに、 その馬鹿が二色君の書いた答えを書き写し間違えた』

所詮この世はそんな感じに構成されている。
あたしみたいな一般庶民属性の特別綺麗な顔立ちでもなく、かといって勉強もスポーツも出来ない ちんちくりんには二色君に虐められることでさえも光栄でござる、とか言わなくてはいけないのか。

そうして、つらつらとそんなことを考えながら、あたしは黒板に答えを書き写したのだった。











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