彼とあたしのセカンドバトル・3 あっぶっねー! あたしは口を押さえながら、代わりに心の中で大きく叫んだ。 押入れの戸を背に、ドクドク激しく鼓動する心臓を押さえつける。 ああ、ビックリした。レンの家の押入れが広くてよかった。 その二つの気持ちの間で、心臓がびっくりするべきなのか、ほっとすべきなのか悩んでいる。 あたしはとりあえず、後者である安堵の気持ちを吐き出すために小さく息を吐いた。 そうして、レンと二色君と桜ちゃんに、早くここから出て行ってくれと心底願うのであった。 「紅、悪い。昨日寝たのが少し遅くて」 ちっともそう聞こえないけれど、実は本気で反省しているレンの言葉に、二色君が『ううん、いいよ』と声を返した。 レンは布団を畳んでいるらしく、ばさりと布が空気を切った音がする。 私は冷や冷やしながら、押入れの中で縮こまった。 まあ、レンも私と二色君を鉢合わせさせたいと思うはずが無いし、さっさと部屋から出て行くだろう。 そう思いながら、ふあ、とあくびを零す。 そういえば今朝は起きたのが早かったし……と目を擦ったところで、あたしの心臓は一度軋んだ音を立てた。 何故かと言えば、 「あれえ?おにーちゃん、みさきちゃんは?」 と、桜ちゃんがきょとんとした愛らしい言葉をレンに投げかけたからである。 「美咲ちゃん?」 二色君の不思議そうな声が聞こえて、私は内心悲鳴を上げた。 ばばば、馬鹿!桜ちゃんの馬鹿! 「わかった!かくれんぼだ!さくらもまーぜーてー」 桜ちゃんはきゃらきゃらと楽しそうに笑い、そう言って、私のいた押入れの片方の襖を開いた。 ひいいいいー!と引き攣った声が飛び出そうになって、思わず口に手で蓋をする。 さあっと血の気が引くのが感じられて、口を塞いだ手の指先が冷たくなった気がした。 それはきっとレンも同じなのだろう。慌てて桜ちゃんを抱き上げたらしく、桜ちゃんの『やだー!おにーちゃん、せくらはー!』という声が聞こえてきた。 「”せくらは”じゃない、セクハラだろう。―――それに、桜、美咲なんて来てないだろう?」 レンの声はいつも通りの乾いた、実の妹に対しても随分と色の無い声で桜ちゃんにそう告げた。 あたしのドキドキぶりを馬鹿にするかのような、いつも通りの声音のレン。 何だかちょっとばかりムカつくが、それと同時にレンがここで声をひっくり返してしまうようなちんちくりんでなくてよかった、とも心底思った。 ああよかった!レンが氷の男とか呼ばれるような『実はあいつ、サイボーグなんじゃないだろうか』と思えるくらいの表情の変わらない男で!本当によかった! あたしは押入れの中で満面の笑みを浮かべつつそう思った。 しかし、その笑みを見咎めたかのように、拗ねたような桜ちゃんが『でもぉ!』と甘く声を上げる。 今度は何を言うのだろうと、あたしは冷や冷やしながら次の言葉を待った。 「さくら、みさきちゃんにケーキもらったもん!」 ひい!と心の中で引き攣った声を上げた。 「それに、みさきちゃんのおくつ、ちゃんとげんかんにあるもん!」 あああ!と心の中で引き攣った声を上げた。 「おにーちゃんに会いに来たっていってたもん!」 もうやめてー!と心の中で引き攣った声を上げた。 「桜、見間違いだろう」 「ちーがーうーもーんー!」 さくらもいっしょにあそぶー!と言ってきかない桜ちゃんを何とか宥めようと、レンがいろいろ言葉をかけているが、そこはやはり子供というべきか、一向に諦めてくれない。 それどころか、レンが痺れを切らして『桜!』と怒鳴りつけるように桜ちゃんを呼んだせいで、桜ちゃんはついに泣き出してしまった。 「さくらも、さくらも、み、みさきちゃんとあそぶー!」 そこまで好いていただければ心底嬉しいのだが、今回は勘弁して欲しい。 あたしも泣きそうになりながら、押入れの中で縮こまっていた。 ごめん桜ちゃん……!今度必ず遊んであげるからね……! 「桜ちゃん、俺と一緒に遊ぼうか?」 二色君の宥めるような言葉にも、桜ちゃんは泣き喚くばかり。 「みさきちゃんがいいー!みさきちゃんじゃなきゃいやー!」 「桜、いい加減にしろ」 「いやああー!さくら、みさきちゃんとあそぶー!」 わんわんと声を上げる桜ちゃん。その声を不審に思ったのか、レンのお母さんが部屋にやってきたようだった。 「蓮、桜、何をしているの」 まだお父様は眠ってらっしゃるのだから迷惑でしょう、と咎めるような声音に、けれど桜ちゃんは泣き止む気配がない。 「おかあさん、おにーちゃんがいじわるするー!」 桜ちゃんはそう言って、一層激しく泣き出した。 「蓮、あなた何をしたの」 「何もしてない。桜が少し寝惚けて勘違いしていたようだから、それを訂正したら泣かれたんだ」 さすがに母親には弱いのか、レンは幾分か声を揺るがせる。 「おい、桜、暴れるな。落とすぞ」 苦い口調でそう言ったレンは、どうやら桜ちゃんに手を叩かれたらしい。ぱちりと乾いた音が聞こえた。 次いで聞こえたのは、『さくら、おにーちゃん、いや!おかあさん抱っこ!』という言葉。どうやら桜ちゃんはレンの腕からお母さんの腕に移ったようだ。 「レン、貴方、男でしょう。自分よりも幼い女の子を泣かせるなんて、何を考えているの」 「だから、何もしてないと言ってるだろう」 「だったらどうして桜が泣いているの」 レンのお母さんの咎めるような声とレンのたじろいだ声。レンが言い負かされるなんて滅多に無いことだ。 私はこんなときだというのに、何故かたいへん満足していた。そして、ああ、レンの顔が見たい!と心底思ってしまった。 桜ちゃんの『おにーちゃんがみさきちゃんとかくれんぼしてるのに、さくらはだめって言う!』という涙交じりの主張に、レンは『してない』と言葉を返す。 桜ちゃんの 「さくらだけなかまはずれにする!さくらもみさきちゃんとあそぶ!」 という主張と、レンの 「美咲は来てないし、かくれんぼもしてない、桜の勘違いだ」 の言葉が何度も交わされたそのとき、レンのお母さんが辺りの空気を震わせた。 「いい加減になさい!」 ぴしゃりとそう言われ、桜ちゃんが『だってぇえ……』と泣きそうな声を漏らした。 「桜、お兄ちゃんは嘘を付くような人じゃありませんよ」 「でも、さくら、みさきちゃんと会ったもん……ケーキももらったもん……」 「レンが寝てたようだから帰ったのよ、きっと」 「ほんと?かくれんぼしてない?」 「ええ、レンはもう大人なんだから、かくれんぼなんてしてないわよ」 宥めるような声音に、桜ちゃんはそれでもまだ少し納得いかないようだ。 「かくれんぼ……」 と言葉を漏らしている。 レンは二色君に小さく謝ってから、『少し出てくる』とお母さんに告げたようだ。 「あら、二色君とおでかけ?まったく、二人して彼女も作らずに……勿体無い」 心底そう思っているのだろう、はふう、と悩ましげな吐息が零された。 「そんなの人の勝手だろう。とにかく、行ってくる。悪かったな、紅、行こう」 「ああ、うん。それじゃ、すみません、お邪魔しました」 いいのよ、と柔らかな言葉が聞こえて、ほうっと安堵した、その瞬間だった。 からりと襖が開き、体育座りで押入れに入っていたあたしの目を太陽の光が射た。 暗闇に慣れていた目が、ゆるりと明るさに慣れる。たった一秒ほどのそれの後、あたしの視界に写ったのは固まる二色君と、呆れたように溜息を漏らしたレン。 それに『あら、美咲ちゃん、いたの……こんなところに』と驚いたようなおばさんと、満面の笑顔で『みさきちゃん、見ーっけ!』と抱きついてきた桜ちゃんだった。 世界はとても非情だ。 あたしは心底そう思った。 |