花鬘<ハナカズラ>







顎を押さえるシュヴェルツを睨み付けつつ、私は「もう一発殴られたいのか」というようにさっきシュヴェルツの顎にクリティカルヒットさせたばかりの右手をぎゅっと握って見せた。
女の子を何だと思っているのだこのど変態。何度殴られても理解できないのか。
今回は額だったから昼間のときよりは少し手加減したが、二度とは許さない。次に了承も取らずにキスなんてしたら今度は股間に蹴りを入れてやる。

私はそんなことを考えながらぷいとそっぽを向いた。
シュヴェルツは勿論、そんな私の反応が気に入らなかったらしく、私の顎を掴んで無理やり自分の方へと向ける。
瞳には若干の苛立ちが滲んでいて、少し怖かったけれど、私はぎゅっと唇を結んで眉を顰めた。

「リツ、いいか、私たちは夫婦になったんだ」
『何言ってるか分かんない』
「お前が異世界から来たとか言葉が分からないとか、そういうことはどうでもいい。お前には私の妻としての義務がある」
『分かんないって言ってるでしょ。またキスなんてしたら殴るよ』

交互に紡がれる異なった響きの言葉に、先に痺れを切らしたのはシュヴェルツだった。
「せめて言葉くらいは通じる者であればよかったものを」と小さく呟いて、チッと舌打ちをしたのである。
勿論言葉の意味は分からなかったものの、言葉の響きから考えるに、おそらく私に対する悪口に違いないということで、私はむっとした。
顎を掴んでいた手をぱしりと叩き、離せ、と瞳で訴える。

するとシュヴェルツは何を思ったのか、その両手を伸ばし、私の両頬をふにっと摘んだのである。
『何す、いたいいたいいたい!』
ばしばしばしと腕を叩いて拒否するが、シュヴェルツは私の頬を摘んで驚いたように目を見開き、どこか感心したように何事かを呟いた。
「すごいな、リツ。ふわふわじゃないか」
『痛いって言ってるでしょ!離せ!』
がしがしと蹴りを入れても、まるで感触を楽しむようにふにふにと頬を摘む手は外れることが無い。
加減してくれているらしく、たいした痛みはないが、それでもほとんど初対面の男に頬を摘まれるのはいい気分ではない。私は『嫌だってば!』と声を上げ、シュヴェルツの腕を叩いた。

「イヤ?」
『嫌!嫌なの!離せ!』
私の言葉を反復したシュヴェルツは、その言葉の意味を考えるように眉をひそめ―――勿論手は未だに私の頬をふにふにしたままだ―――、ああ、と頷いた。

「やめろ、という意味か?」
『嫌だってば!もう!離せ!』
無理やり手を退かそうとしてもびくともしない腕に、私は今度こそ泣きたくなった。
それは自分の思い通りにならない悔しさも勿論あったし、そして言葉の通じない不便さもあったし、そして何より今すぐベッドに潜って眠りたいという思いがあった。
じわりと滲んだ涙にシュヴェルツはやっと私の頬から手を離し「何も泣くことはないだろう」と私の目元にそっと指を沿わせた。勿論全力で拒否しておいたに決まっている!

さっきから全身全力でシュヴェルツを拒否しているというのに、この変態はどこまで鈍いのか、今度はぐいと強い力で私を抱き寄せてくる。
『嫌だってば!もう、やだやだやだやだ!うざったい!離せ変態!』
じたばたと暴れると、宥めるように頭や背中を撫でられたが、そんなもので大人しくなると思うのか。
どうにか腕の中から抜け出そうと奮闘していると、シュヴェルツはやっぱり変態らしく、私の目元に唇を落としてきた。ギャー!お嫁に行けない!
こんなことを思った私は、勿論つい数時間前にこの変態のお嫁さんになったなど、夢にも思っていない。

『やだっ、やだっ、やだってば!』
「リツ、暴れるな。足を踏むな」
『変態!お父さんお母さん助けてー!アリー!リアンー!警察呼んでー!』

ぎゃんぎゃんと喚く私の口を塞いだのは何を隠そうシュヴェルツの唇で、私はぎょっと目を見開いた。
昼間もいきなりキスされたが、今もいきなり!無理やり!強引なキスである。こいつ、本気で警察に突き出すべきだ。
強く押し付けられた唇に目を見開いて驚いた私の純情可憐な乙女らしい反応に、けれどシュヴェルツは満足することなく私の顎を押さえて唇をこじ開け、舌まで入れてきた。

ぎいいやあああああー!未成年に淫行をはたらくとしょっぴかれるんだぞ、そんなことも知らないのかこのど変態ー!という悲鳴は勿論吐き出せるはずもなく、くぐもった音となって唇の間から漏れただけだった。
逃れようとしても後ろはドアだし、殴ろうとした右腕は押さえつけられる。ただ一つ自由な左手で、顎を掴むシュヴェルツの腕に思いっきり爪を立てておいた。
しかし、やっぱり唇は離れていかない。本気で身の危険を感じて全力で足を踏みつけてやると、シュヴェルツは小さく眉を顰めて、更に深く唇を重ねた。

苦しいし押さえつけられた腕は痛いし背筋がぞわぞわするし、ひいっ、歯列をなぞるな!
少女マンガではこういう熱烈なキスを好きでもない男―――たいてい美形で、たいていその後に主人公の恋人になる―――から受けると、くらくらしていたけれど、あれは嘘だ。絶対に嘘だ。ひどい鳥肌が立っているではないか!
意識すると気持ち悪くなりそうだったので、心の中で念仏を唱えようとして、しかし念仏とはどういうものなのかよく分からなくなって断念した。なむあみだぶつなむあみだぶつ、というあれのことだろうか。
ええーい!だったら素数だ。素数を数えよう。えーと、1……待った、1は含まれるのだったか?もしかして含まれなかったような気もしなくも無い、というか含まれなかった気がする。1とその数以外に約数がない正の整数、というのが素数だった気がする。じゃあえっと、いちじゃなくて、にーい、さーん、ごーお……ひいいいいー!

そうやって素数を17まで数えたとき、やっとシュヴェルツの唇は離れていった。
鉄壁の清純派を誇る私であろうと、さすがに今の長く、そして濃厚なキスは腰にきた。
離れていったシュヴェルツの唇は紅でも塗ったかのように赤く、目元がほんのりと赤くなっている。視界に映るシュヴェルツのやけに色っぽい表情は、私を妙にドキドキさせた。
濡れた音を立てて唇が離れてすぐ、はぁ、と2人同時に息を吐き、そして次に私は思いっきり唇を拭い、シュヴェルツは艶かしい仕草で自分の唇に指を置いた。

「甘いな」
『変態。警察に突き出してやる。人生破滅させてやる』

シュヴェルツが艶やかに笑って紡いだ言葉と、私の色気も素っ気も無い言葉は重なって空気に溶ける。
蝋燭と月の明かりだけで照らされた部屋は薄暗く、シュヴェルツのどこかで砂糖を丸呑みしてきたらしい甘い声も、妙に艶かしい仕草もそして今のキスも私に妙なことを想像させたが、それを振り払うように私はもう一度唇を拭った。
せっかくリアンが塗ってくれた甘い香りのクリームは取れてしまって、強く擦りすぎたせいかぴりぴりと痛みまでする。

あとでリアンにクリームを貸してもらおうと思いつつごしごしと唇を拭うと、シュヴェルツは「擦るな」と私の手を取った。
離せと噛み付く前に、シュヴェルツは空いたほうの手を私の頬にそっと添える。
そうして何を思ったか、指先で輪郭をなぞるようにやわらかく触れてきたのである。
断じて感じてしまったわけではないと言いたいが、くすぐるように触れる指先が、手首から香るコロンが、体の真ん中を溶かしていく。
ともすればこのまま情事まで雪崩れ込んでいきそうな妖しい雰囲気になりつつあることを感じ、そしてもしかしたら流されてしまいそうな自分に気付き、私は「これはまずい!」と目を見開いた。
友人で体験済みの子は少なくないが、私は一夏のアバンチュールなんて絶対にごめんである。っていうかそもそも今は夏じゃないし!

一瞬にして頭の中を巡った、一秋のアバンチュール、気付けば妊娠、出産、シングルマザー……という人生に、私は青くなった。
その一瞬の隙がいけなかったらしい。少し大人しくなった私がシュヴェルツを受け入れるとでも思ったのか、シュヴェルツは何やら妙に甘い声で何かを囁いて、私のナイトガウンに手をかけた。
ぱちりと瞬きをしたその一瞬で、私は薄いネグリジェ一枚を身に纏っただけの姿になる。

ぎゃっと悲鳴を上げる暇もなく頬から首筋へ、そして胸元にシュヴェルツの指先がくすぐるように滑り、胸元のリボンに触れた。
そうしてするっと簡単にほどけたリボンが、そのほどけ方と同じほど簡単に、私の涙腺を決壊させたのである。
ギャー!やだー!と大きな悲鳴を上げることもできず、ひくりと喉を引き攣らせると、シュヴェルツの指先はぴたりと動きを止めた。

「しゅ、しゅべるつ」
嫌だ、という言葉さえも知らないことに気付いたが、ふるふると首を横に振って嫌だと伝える。
散々暴れた後だったため、これ以上殴る力も出ない。
俯いてぽろぽろと涙を零すと、シュヴェルツは私の頬に手を置いて、親指でそっと涙を拭った。
そうしてからさっきの強引さをどこに置いてきたのか、今度は壊れ物でも扱うようにそっと私を抱き寄せ、疲れたように何かを呟いた。

「……私は妻を娶ったのであって、養子を迎えたわけではないのだが」

意味は分からなかったけれど、これ以上変なことはしなさそうだったので、私はそのままシュヴェルツに寄りかかり、目を閉じた。
そして次に気付いたときは翌日の朝だったので、おそらくそのまま寝てしまったのだと思う。
起きてすぐにシュヴェルツに何事かを懇々と訴えられたが、言葉が全く分からなかったので全て聞き流しておいていいのだと思う。