花鬘<ハナカズラ> 「お前は私が幼少の頃から何かと嫌がらせのようなことをしてくるが、不敬罪にでも処されたいか、ゼフィー」 「私がいつ嫌がらせなど幼稚なことをいたしましたか。ええ勿論嫌がらせなどではございません。私の妹に散々愛を囁いておきながら他の女を娶ることについても、勿論私如きが王子に進言できるような立場ではございません。ええ、勿論です」 ゼフィーがさらっと何かの言葉を口にすると、シュヴェルツは「だからそれは誤解だと何度言わせる……!だいたいその頃、私はいくつだったと思っているんだ!」と頭を抱えた。 そんなシュヴェルツの様子にゼフィーは「誤解?」と鼻で笑う。 そうしてから「ええそうですね、王子は女性に誤解をさせることがとてもお上手ですから」なんて言いつつ小さく眉を寄せたその瞬間、私は「あっ」と声を出した。 この顔、どこかで見たことがあると思ったら、そうだ。 私がここに呼ばれたとき、最初に顔を見た人である。 大学からの帰り道、いきなり前が見えないほどの豪雨になって、雨粒が目に入り、きゅっと目を瞑った次の瞬間には私はこの世界にいた。それはもう突然も突然、おかしなほど突然なことだった。 誰かに呼ばれた気がした、だの、事故が起こって、だの、そんなものは一切無い。 瞬きを一度しただけで、財布に携帯、ポーチ、手帳、そしてコンビニで買ったばかりの新発売のチョコレートまで入っていた鞄と一緒に、ほんの一瞬で私はこの世界にやって来てしまったのだ。 ぽっかりと口を開けた間抜け面で。 ほんの瞬き一つ分の間に、私の体はコンクリートの道路から小さな滝の中に移されていたのだ。 冷たい水飛沫が体中に降り注ぎ、膝ほどまで水に浸かった状態で、私は間抜けに口を開けたまま視線をぐうるりと回した。 小さな滝の周りを囲むように変な服装をした人達がいて、しかも全員ぶっ倒れているものだから、いったい何が起こったのだと心底驚いたのは記憶に新しい。 慌てた様子のメイドさん達―――その中には勿論アリーもいた―――に滝から上がらされ、タオルで全身を包まれた私は、勿論状況把握のためにぐるぐると辺りを見渡した。その中に、ゼフィーがいたのだ。 『うわっ、何だこれコスプレ?』なんて思いつつ見つめたのは、多分ゼフィーだったような気がする。 こんな、できるサラリーマンのような男性が何故コスプレを……と思った記憶があるのだ。 あのときは倒れていたからその瞳の色までは分からなかったけれど、薄い色の目だなあ、なんて思った私の肩を激痛が襲った。 言うまでもなく、シュヴェルツだ。この男、綺麗な顔をしているくせにこの乱暴なところがある。痛い、と肩に置かれた手をぺしぺしと叩く。 シュヴェルツは私の赤くなった肌を見て目を見開き、すぐに「すまない」と言葉にしたが、やっぱり何て言っているのかまったく分からなかった。 シュヴェルツは乱暴だと言ったが、おそらく本人にその気はなく、むしろこの世界の人間と比べて私が貧弱である可能性がかなり高い。 というのも、2週間前にこちらに来てから、いくつか苦労したことがあったのである。 まず、ナイフとフォーク。あ、使えないというわけではないのだ。重い、という意味なのだ。 以前両親に連れられて何度かイタリアンだのフレンチだのを食べに行ったことがあるが、そのときの食器はこれほど重くは無かったのに、こちらの世界のナイフやフォークはずしりと重い。 トイレのドアはもしかしたら建てつけが悪いだけなのかもしれないが、こちらも開けるために無駄に力が要った。 窓を自分で開けようとしても重くて苦労したし、最初は自分の体を動かすことでさえも重くてだるくて大変だった。 重力が地球と違うのだろうか、と思ったこともあったが、結局いったいどういう仕組みなのかはよく分からない。 考えても分かるようなことではなく、また2週間も経った今ではとりあえず自分の体の重さには慣れたし、窓やドアは今特訓中である。まあ、開けようと奮闘すると、すぐにメイドさんがやってくれるのだけど。 今まで散々止められてきたが、やっぱりこれから腕立て伏せはやることにしよう、と私は人知れず決意した。 ここで生活していくためには言語の習得と、そして何より筋肉が必要である。 私がそんなことを考えている間にも、シュヴェルツとゼフィーは静かにねちねちと言葉を交わしていた。 言葉は全く分からないが、二人は仲良しこよしな関係ではないことくらいは分かる。 私はふああ、とあくびをしながら、知らない言葉で交わされる言葉を右から左へと聞き流すことにした。 ありー、と名前を呼ぶと、アリーはそろそろとこちらに近寄って来て「リツ様、お疲れですか?」と言葉を口にした。 勿論アリーは私が言葉を理解できないことを分かっているので、私の返事を待たずに「シュヴェルツ様」とおずおずと変態の名前を呼んだ。 「シュヴェルツ様。リツ様がそろそろお疲れのことかと思いますが……」 アリーの言葉に、シュヴェルツはこちらに視線を向けた。 きょとんとしながら見つめ返すと、シュヴェルツはアリーに何かを言って、再びゼフィーに向き直る。 アリーはシュヴェルツの言葉を受け、そっと私の手を取った。 「リツ様、こちらへ」 柔らかい声でそう言われ、私はおそらく『付いて来い!』という意味だろうと判断し、アリーの後ろに続いた。 アリーはいつもの通り優しくて、そして私は疲れていて、この世界にやって来てから2週間も経っていたのだから、これ以上何かが起こるはずがないと思っていたのだ。 何がどうなっているのか分からないが、今日もあの部屋へ戻り、食事を摂って、眠り、そして明日を迎える。 そういう平和なときが訪れるのだとばかり思っていた。 だからまさか自分がついさっきシュヴェルツという名の変態と結婚して、人妻になったとは、夢にも思うはずが無かったのだ。 そしてその日の夜、私はやっと慣れてきたフォークやナイフで夕食を摂って、そしていつも通りゆったりとしたネグリジェを着せられてベッドに潜り込もうとした、のだが。 「リツ様」 いつも通りの柔らかい声で名前を呼ばれ、振り向いた先にはアリーがいた。 どうしたのだ、もう寝る時間ではないのか、と首を傾げる。 いつもどこか遠くから聞こえる鐘の音が聞こえたら強制的にベッドに押し込まれるというのに、今日は違うらしい。 アリーはベッドに乗っていた私の手を取り、「参りましょう」と微笑んだ。 意味が分からないながらもアリーに続いて寝室を出る。 眠るときはいつもアリーがいて、他のメイドさん達はほとんどどこかに行っていたのだけど―――おそらく自室で休むのだと思うけれど―――今日はもう一人残っているようだ。 どうしてここにいるのだと、こてりと首を傾げると、リアンという名のメイドが外に向けて合図するように、こんこんと私の部屋のドアを叩いた。 リアンは少し目元のきつい美人で、薄いグレーの髪とグリーンの瞳はお金持ちの友達の家で見たロシアンブルーの猫に似ている。すらりとした長身と優雅な所作は、同じ女性として憧れるものだった。 「りあん」 私が彼女の名前を口にするのと同時に、アリーは私の肩にナイトガウンをかけた。 さっきリアンがノックしたドアは外に居る人間によってゆっくりと開かれる。 どうしたのだろうと疑問に思いながら、アリーを見上げる。 アリーは淡く微笑んで「参りましょう」とさっき聞いたのと同じ響きの言葉を唇に乗せた。 よく分からないが、どうやらどこかへ行くらしい。 靴もわざわざ履き変えさせられて、私は疑問に思いながらもアリーの後に続いた。その後ろにはリアンがいる。 月明かりの差し込む廊下は、けれど人口の明かりで満たされた世界で育った私には薄暗く感じて、ちょっと怖い。 十八歳のレディーとしてはまさかお化けが怖いなどとは言えなかったが、私の頭の中では怖い話とホラー映画で見た光景が代わる代わる巡っていた。 私が暮らしているのは石造りの塔の中なのだが、私たち以外に誰もいないのではないかというほど静かである。 少し動き回るだけで随分と音の響きそうな廊下は、けれど私とアリーとリアン、それから少し先と少し後を歩く警備のおじさん―――というには少し若いかもしれない―――の足音しかしない。 少し肌寒い空気の中、私はガウンの胸元をきゅっと寄せて、ぷるりと震えた。 ああしかし、最近ではこの時間帯はすでにベッドに入っていたので、物凄く眠い。 早く部屋に帰って寝たいなぁなんて思いつつ、アリーの後に続いてしばらく歩くと、塔の中から一度出ることになってしまった。 しかし、ここ、本当に王宮なのだな。来たときは混乱しすぎていてよく見ていなかったし、それから2週間はずっと塔の中で過ごしていたから確証は無かったが、窓から眺めていて「まさか王宮とか、そういうところなのだろうか」と思っていたけれど、本当にそうらしい。 渡り廊下をゆるゆると歩いていると、遠くから賑やかな声が聞こえてくる。 寝なくていいのかと思ったが、今の時刻はおそらくまだ8時を回ったところなのだ。むしろ私が毎日早い時間に寝ているのである。 規則正しすぎる生活と野菜中心の食事のおかげで肌はつるつるになったことは喜ばしいことなのだけど、なんて思いつつ、あくびを噛み殺す。 そうしてやっと目的の場所に到着したらしく、アリーは一つの扉の前で立ち止まり、コンコンコン、とノックをした。 「シュヴェルツ様、リツ様をお連れいたしました」 シュヴェルツ。その名前を聞いた途端、唇への淡い感触とそのときに鼻をくすぐったコロンの匂い、そして顎に触れた大きなかさついた手の感触が思い出され、私は思わず眉を寄せた。 甘い香りのクリームが塗られた唇をごしごしと拭うと、リアンはそっと私の腕を取り、咎めるような視線を向けてきた。 そうしてからスカートのポケットに手を入れて、小さな陶器の器を取り出す。それを開けると、さっき唇に塗ってもらった甘い香りのクリームが入っていて、リアンはそれを自分の薬指に乗せ、そっと私の唇に触れた。 う、く、くすぐったい。 っていうかこれくらい自分でできるのだけど!とリアンの腕を掴むと、リアンは「リツ様」と私を呼んで、その手を外した。 そうしてから再び私の唇にクリームを塗って、最後に少し乱れていたらしい髪をそっと纏めてくれる。 2週間経っても慣れないこのお姫様扱いにくしゃみがしたくなった。 アリーのノックの後、部屋の中から何か短い声が聞こえて、アリーはその声を確認してからそっとドアに手をかけた。 きぃ、と小さな音を立てて押し開かれたドアの向こうにいたのは、さっき聞いた名前の通りシュヴェルツで、私は思いっきり眉を顰めた。 シュヴェルツは昼間会ったときのようにきっちりと服を着込んではないない。 今から寝るのか、ガウンを羽織っていて、随分とリラックスした服装だ。それでも座っていたソファの近くにはすぐ手に取れるようにということなのか、剣が置いてある。 私は「何でこんなところに連れてこられたんだろう。まさか今日アッパーを食らわせたことに対する文句とか、そういうのがあるのだろうか。いやいやしかし、悪いのはこの男だ。初対面の女の子にいきなりキスしておいてアッパーの一つで済んだのだから、むしろ私に感謝するべきだ」などと思いつつ、しかし怒られるのは怖いので、ささっとアリーの後ろに隠れた。 「ありー」 小さくその名前を呼ぶと、アリーは困ったように微笑んで、そうしてそっと私を部屋の中へと誘った。 いきなり人にキスしてくれるような変態と同じ部屋にいるのは嫌だと思ったが、シュヴェルツはソファから立ち上がり「リツ」と名前を呼んでくる。ついでにこっちに来いとでも言うような視線も向けられた。 その声は予想に反して怖くなかったので、私は恐る恐るシュヴェルツに近寄る。 勿論手の届く範囲にまでは近付かなかったし、いざとなればダッシュで逃げられる距離で止まり、そしていつでも悲鳴を上げられるように深呼吸までしておいた。 いったい今から何が行われるのか分からないが、とりあえず逃げる準備と悲鳴を上げる準備だけはしておこうと拳をきゅっと握る。 それと同時にシュヴェルツはアリーとリアンに対して何かを言って、再び私に向き直った。 な、何だ。やるのか!と小さくファイティングポーズをとった私の背後で、きぃ、と鈍い音がする。 ふと振り返るとアリーとリアンが部屋から出て行くところで、私はぎょっとした。 え、えええ!待って!置いていかないで! 慌てて「ありー!りあん!」と声を上げたが、2人は綺麗な動作で礼をして、何か挨拶のような言葉を口にしてから無情にもそのドアをぱたんと閉めた。 最後に見えたアリーの心配そうな申し訳なさそうな視線に、何だか不安が煽られる。 たっとドアまで駆けてドアを開けようとしたが、悔しいことに僅かにしか動かない。このときほど自分の非力さを呪い、メイドさん達に止められたからとトレーニングしてこなかった自分を恨んだことはない。 くそっ、開け、開きやがれ! ぐぎぎとドアを開けようと奮闘していると、後ろから「何をしているんだ、リツ」と呆れたような声がかかり、ふわっと甘いコロンの香りが鼻をくすぐった。 いきなり背後から声をかけられ、しかもその声が物凄く近くというかむしろ真上でかかったものだったので、私は物凄く驚いた。 驚きすぎて「ぎゃっ」と悲鳴まで上げ、反射的にシュヴェルツから逃れようと、ばしんとドアに突撃した。 額をドアにぶつけ、いってえ、と悶絶する。 間抜けな私にシュヴェルツは「本当に何をしているんだ」とやっぱり呆れたような声を出して、静かな動作でしゃがみ、ぺたり、私の額に手を置いた。 「痛むか」 意味は分からないが、おそらく心配する言葉だろう。まさか「いい気味だ」とかいう意味だとは思いたくない。 シュヴェルツは少し赤くなった私の額から手を離し、小さく笑った。 このっ、おでこをぶつけた乙女を笑うとは何事だ。殴るぞ! とりあえずもう一度アッパーでもしておくべきかと拳を握ると、シュヴェルツは今度は淡く微笑って、とても自然な動作で私の額に唇を落とした。 勿論、思いっきり悲鳴を上げて二度目のアッパーをくらわせたことは、言うまでも無い。 |