花鬘<ハナカズラ>







ほとんど食べられなかった夕食の時間の後、私は部屋に戻された。
入浴の準備が整うまでお部屋でゆっくりなさっていてくださいと言われたのだ。
文字の勉強のために本でも読もうかと思ったが、お腹が膨れているせいか、どうも気分が乗らない。
しばらく室内をうろうろして、結局、ベッドの上に腰を落ち着けた。

窓の外、細い月が空に浮かんでいる。
ふかふかの大きなベッドに一人ぽつんと腰掛けて、私はそれを眺めていた。
そうして、思い出す。――この世界に来てからのことを。


初めは、小さな滝の下だった。
ぴしぴしと冷たい水しぶきがかかる、そんな中、私は変な服を着たおじさんたちが周囲に倒れているのを見て、ぽかんとした。
コスプレ大会か何かか? と思ったような記憶がある。
しかしコスプレ大会でも何でもなく、ここは異世界だったのだ。

他の人よりずっと筋力の劣る私は、しばらく「何だ、自分のこの貧弱っぷりは!」と震え、フォークを持つことさえも辛かった。
今は大分慣れたが、まだまだ他人から見れば貧弱なことだろう。
それから、何だか妙な塔で軟禁生活を送り、シュヴェルツに出会って、ちゅーされたり頬を摘まれたり叱られたり、花を貰ったり頬を摘まれたり叱られたり、散歩に連れて行ってもらったり頬を摘まれたり叱られたり……、何か、ほぼ頬を摘まれて叱られてるだけな気がする。
シュヴェルツめ、か弱い姉に暴力をふるうなんて、まるで鬼の所業だ! 何たる極悪人だ! と怒ろうとして、ぴた、と自分の思考にストップをかけた。

いや、でも、いいところも勿論ある。
泣いてたら慰めてくれるし、忙しいのに「今日覚えた単語披露大会」に付き合ってくれるし、撫でてくる手は優しいし、お仕事も一生懸命頑張っているし、……いい奴だと思うのだ。
つらつらとシュヴェルツのいいところを挙げてみて、うむ、と頷く。

そうだ、いい奴なのだ。
私の、可愛い、異世界の弟。

―――嫌いになりたくない。

でも、シュヴェルツが私をこの世界に呼んだのだ。
いや、実際に呼び出したのは、きっと泉の周りで倒れていたおじさんたちなのだろうけど、それを拒否してくれなかったのだ。
私はシュヴェルツがどのくらいの権力を持っていて、そしてこの召喚はいったいどういう意味をもっているのか、よく分からない。何度も思ったけれど、異世界人の姉なんて何の役に立つというのだ。

この世界において、私の知識といえば、パンは“サラム”、お茶は“インディー”、散歩は“リュイケル”というらしい、くらいしか無い。
それから、優しい微笑みを浮かべるメイドさんは“アリー”で、美人なのにあまり笑わないのが“リアン”、私にタマをプレゼントしてくれたのが“ゼフィー”。それから、と知り合った人たちの顔と名前を順々に思い浮かべる。
誰もみんな優しく、迷惑をかけてばかりの私に優しくしてくれた。みんな、嫌いじゃない。いい人ばかりだ。
けれど、と思う。

その優しさと引き換えに、私は今まで生きてきた世界から引き離され、大切な家族を奪われてしまった。
どちらか選べといわれたら、私は勿論、元の世界と家族を選ぶ。
こちらの世界の誰と会えなくなってもいいから、家族を選ぶ。

そう思うのに、ぷくりと気泡のように浮き上がったのは、シュヴェルツの姿だった。
口煩くて乱暴で、たまに優しい異世界の弟に会えなくなるのは、ちょっと寂しい。いや、ちょっと、というか……だいぶ寂しいかもしれない。
そんなことを思ったところで、丁寧なノックの音が響いた。
私が断ったために部屋の中にはメイドさんはいない。
直接「はい」と声を上げると、入室の許可を求めるジュリアの声がする。
どうぞ、と迎えれば、そこにはやはり凛とした美しい立ち姿のジュリアがいて、私はにこにこした。

「リツ様、入浴の準備が整ったようですが――僭越ながら、私がお手伝いをいたしましょうか?」

お風呂、てつだう。
その二つの単語を聞き取って、私は首を横に振った。

「わたし、ひとり、だいじょうぶ」

シュヴェルツのお城やジークフリードのお城にいたときは、メイドさんがあれやこれやとしてくれたが、そもそもの生まれ育ちが高貴ではない私は、他人に入浴を手伝ってもらう必要などない。
まあ、最初はこちらの世界のお風呂に慣れず「どれがシャンプー?どれがトリートメント?えっ、無いの?どうやって洗うの?」と困惑し、メイドさん達が色々と手伝ってくれた――というか余すところなく磨き上げてくれた――のはありがたかったけれど。
今はもうどうやってお風呂を使えばいいか分かるし、むしろこの旅路の中では、「お手伝いを」と申し出てくれる人を断り、久しぶりの一人での入浴を楽しんでいたのだ。

ジュリアも初日に手伝いを申し出てくれたが、私はちゃんとお断りしたはずだ。
それなのに何故今回またそんなことを言うのだろう?
きょとんとしてジュリアを見つめる。
ジュリアは、では、と私の瞳を見つめて口を開いた。

「では、少しだけ、お話に付き合っていただいてもよろしいですか?」

彼女の言葉に、私は「はい」と頷いた。




***



私はベッドに、ジュリアは鏡台の椅子に浅く腰掛ける。
彼女は少し悩んでから、そっと唇を開いた。

「リツ様は、陛下のことがお嫌いですか」

ジュリアの言葉に、私は「いいえ」と首を横に振る。
ジークフリードのことが嫌いかと言われれば、そういうわけではない。無口だけど意地悪をしないし、話せば理解してくれることもある。散歩とか、散歩とか、散歩のことだ。
どちらかといえば好きの部類に入るだろうが、それがどうかしたのだろうか。
首を傾げると、ジュリアはきゅっと眉を寄せ、唇をきつく結んだ。

「……でしたら何故、陛下の下から去られるのですか」
「さう?」
「陛下を置いて、エルヴェールの王子の下へ戻ろうとするのは、何故です?」

どうしてシュヴェルツのところに行くのか、どうしてジークフリードのところに残らないのか、という意味だろうか。
私はジュリアの言葉を飲み込んで、ええと、と返すべき言葉を組み立てる。
しかし、何と言えばいいのか分からない。
そもそも、何故といわれれば、自分でもよく分からないのだ。
ジークフリードには、この国の人は私の名前を呼んでくれないから嫌だとは言ったが、それは多分理由の一つであって、それが全てではない気がする。

最初に呼ばれたのがシュヴェルツの国だから?
シュヴェルツの国で過ごした時間の方が長いから?
シュヴェルツの国の方が知り合いがいっぱいできたから?

そのどれもが理由の一つである気はするが、どれも違うような気がする。
おそらく――多分だけど、私は。

「しゅべるつ、あう、したい」
シュヴェルツに会いたいのだ。

ジークフリードのお城での生活は、勿論悪いものではなかった。
シュヴェルツのところでお世話になっていたのと同じほど苦労の無い生活をさせてもらったし、エリー様と呼ばれるのは不満だが、 慣れてきていた。
多分、シュヴェルツがいなかったら、私は「アリーとリアンには会いたいけど、まあ仕方ないか」と思っていた気もする。
でも、これがいいのか悪いのかは分からないけれど、シュヴェルツに会いたいなという気持ちは諦め切れなかった。
同じ“弟”なのに、ジークフリードよりシュヴェルツを選ぼうとするなんて、姉としては失格かもしれない。
しかし、お姉ちゃんだって人間だ。

シュヴェルツにもう一度会いたい。
ただそれだけで、今の私は動いている気がする。

こんな風に思うようなことをしてもらった覚えは―――たくさんある。
意地悪で口煩くて人のファーストキスを奪うような最低なやつだけど、何だかんだといいながら甲斐甲斐しく世話をやいてくれ 、たまに慰めてくれ、たまに優しくしてくれる。
ジークフリードは私に嫌なことをしなかったけれど、でも常に距離が開いていた気がする。
それは不快ではなく、心地良い距離感だったけれど、どちらかを選ぶのならばシュヴェルツに頬を摘まれて叱られていたいと思う。

……頬を撮まれて叱られたいなんて、私は変態かもしれない。
そうやって少し落ち込んだところで、ジュリアはぽろりと真珠のような涙を落とした。
その突然の涙に、私はぎょっと目を見開く。

「じゅ、じゅりあ?」
「陛下が……陛下が、お可哀想です。エリー様に続いて、リツ様まで……」
「まつ! えりーさま、だれ?」

エリー様。それは、私がずっと呼ばれていた名前だ。
それはいったい誰のことかと尋ねれば、ジュリアは涙を拭ってから、青い瞳をこちらに向けた。

「エリー様は、陛下のお一人目のイーアでございます」

この世界にはまだ他に兄弟がいたのかー!
私は驚愕した。
弟が2人。しかもそれぞれが違う国のお城に住む偉い人、という摩訶不思議っぷりだが、更に他の兄弟もいたのか。
もしかしたら、まだ他にもたくさんいるのではないか。サッカーチームが作れるくらいにいるのではないか。
混乱しながらそんなことを考えた私の視線の先で、ジュリアは落ち込んだような、悲しげな表情で言葉を続ける。

「エリー様は、陛下が最初に迎えられたイーアでございます。あの方も、リツ様と同じ、言葉の分からない方でした。異世界の方だからでしょうか、少しお小さくていらっしゃいましたが、とても美しい女性でいらっしゃいました」

ふむふむと頷く。
ことば、できる、〜ない。ちいさい。それから、とっても、うつくしい。
小柄な美人ということは分かったが、私と同じように言葉が話せないというのはどういう意味だろう。

アンナ・フルール(異なる・世界)というのは、どこかで聞いたような気もするが、理解していない単語である。そういえばベルもそんなことを言っていた。
エリー様は違う国の人なのかなぁ、でもこの世界は―――もしくはシュヴェルツの国とジークフリードの国だけなのかもしれないけど―――同じ言語を使っているようだし、いったいどういう意味なんだろう。もっとずっと遠い国の人、ということだろうか。
疑問に思う私の視線の先で、ジュリアは言葉を続ける。青い瞳は涙で潤み 、唇は震えていた。

……もしかしてジュリアはジークフリードのことが好きなのかな。
異世界の弟達は、随分モテるようだ。
今まで一度たりとも彼氏のいたことがない私は、羨ましい気持ちになった。

「ですが、エリー様はとても体が弱く、お心もとても不安定な方で、なかなかムーアの国に慣れてはくださいませんでした。誰も言葉を理解できないことに絶望なさった様子で、お食事もほとんど摂られず、毎日ベッドの上で涙を零され、同じ言葉を―――おそらく、帰りたいと、おっしゃっていたのではないかと思います。陛下が多忙の中、食事やお茶に誘っても、決して頷かず、常にベッドの上で涙を落としてお過ごしでした」

これを私がきちんと理解していたら、わわわ私だって最初は泣いたし絶食の日々を送った! と声を大にして言い放ったことだろう。
異世界人としての貧弱さには私も最初は苦労したと。
そして私はそれを乗り切るために空いた時間に筋力トレーニングを行ったと。
しかし幸いなことに、私はジュリアの言葉の意味を全ては理解できなかったので、こっくりと頷いた。
どうやらエリー様は病弱だったらしい、と判断する。

「ですが、ある日、エリー様が初めてお笑いになったのです。私はそのとき、エリー様の騎士として傍に控えておりましたから、よく覚えております。城に仕える医師の男が、お食事を摂られないエリー様のために、城下で売っている飴細工を渡したのです。子供が好むような、ジャーディーを模した飴でした」
「じゃーじー。にゃんにゃん……」

そういえばタマとミケは元気だろうか。
シュヴェルツはちゃんとご飯を上げているかな。撫でてあげているかな。そして爪の研ぐ場所はここだと、ちゃんと躾けてくれているだろうか。
ふわふわの毛並みを思い出しつつ、撫でる動作で手を動かす。
ああ、タマとミケにも早く会いたいなあ。

「侍女も、私も、最初は『そんなものをお渡ししても、喜んでいただけるはずがない』と思いました。今まで、どんなものを贈られても、一切喜んでいただけなかったのですから。そして、私たちが誠心誠意お仕えしても、この国を好きになっていただこうと努力しても、何一つエリー様のお心を動かすことはできなかったのですから。……けれど、エリー様はそれを受け取り、促されるままに口に含んで……初めて、微笑んでくださったのです」

エリー様は甘いものが好きだったのか。もしくは猫が好きだったのかと考えた私は、別に人の感情に鈍いわけではないと言い張りたい。
知らない言語で人の心の繊細な部分を語られても、理解できないだけだ。絶対にそうだ。

「それからは、もう―――医師は毎日エリー様の元へ通い、城下で売っている甘い菓子や、小さな細工物や、花を毎日贈ったのです。初めは、私達も、エリー様が喜ぶのならと思いましたし、陛下も好きにさせるようにとおしゃいました。けれど、あの医師は、不敬にもエリー様によからぬ想いを抱いてしまったのです。それから、エリー様も。リツ様がいらっしゃる十日ほど前のことでしょうか、夜、部屋の外で控えていた私は、エリー様に呼ばれて部屋へ入りました。お加減が悪いようでしたので、あの医師をお呼びしましたら、部屋の外へ出ているようにと……勿論、こんな夜分に、夜分ではなくとも、エリー様を陛下以外の男性と二人きりにさせるわけにはまいりませんので、お断りいたしました。ですが、ではせめて寝室の外にと、医師ではなくエリー様に命じられ、仕方なく寝室の外に控えていたのですが、それからどれだけか経過しても医師は部屋から出てまいりませんので、心配になって寝室の様子を窺ったときには、もう、エリー様の姿も医師の姿もなく。医師の文字で記された書置きによると、このままではエリー様のお心が病んでしまうと。医師としても、エリー様をお慕いする者としても、彼女をこのままここには置いておけぬと……」
「……はい」

やばい。
長いぞ。
私は冷や汗を流しながら、一生懸命ジュリアの言葉を聞き取ろうとした。
普段ならゆっくりと、私にも分かるような言葉を選んでおしゃべりしてくれる彼女は、今日はそこに気遣う余裕もないくらいに気持ちが高ぶっているらしい。
涙のせいか目元は赤くなり、声は震えている。

「私がもっとしっかりエリー様をお支えすることができれば……そうすればあの御方は今も陛下の元にいらしたのに。陛下は私を信頼して、エリー様の騎士としてくださったのに……!」

ジュリアの最後の方の言葉は、もう、私に聞かせるためというよりは、ただただ自分の思いを語るだけのようだった。
だから私も言葉を挟まなかったし、ジュリアは語りながらぽろぽろと涙を落としている。
泣かないで、と言おうかと思ったけれど、もしかしたらジュリアはずっと誰かに聞いて欲しかったのかもしれないと思った。
後悔と、それから懺悔の言葉を。
だから私は黙って頷き、ジュリアの背中をゆっくりと撫でた。以前、シュヴェルツがしてくれたように。
ジュリアは顔を覆って、ですから、と搾り出すように言葉を紡ぐ。

「ですから私は、陛下に、今度こそ幸せになっていただきたいのです。エリー様のときのように、陛下のお心を傷つけたくはないのです」

ところどころに知らない単語があるので、全部は理解できないが、おそらくエリー様は優しくしてくれたお医者さんのことが好きになったのだろう。それで、二人は逃げたと。
それはそれで、物語のようでロマンチックといえばロマンチックである。
ジークフリードはおばあちゃん子でもあり、エリー様に対してはシスコンだったのだろうか。
だから、エリー様がいなくなってショックだったのか?
そしてジュリアは、ジークフリードが姉二人に置いていかれて寂しそうだから、行かないであげて、と言いたいのだろうか。
分かるような分からないような話である。
いいからジークフリードもエリー様みたいに早く恋人を作ればいいのだ。
――そうだ、だって。

「じゅりあ、いる。じーくふりーど、いっしょ」

ジュリアが居てあげたら、いいのではないのか。
ぱちぱちと瞬きをしてそう告げると、ジュリアはしばらくぽかんとしてから、ぼぼぼぼぼっと顔を赤くした。
白い肌が、お酒に酔ったみたいに赤くなる。

「な、な、な」

真っ赤になって、ぷるぷる震えるジュリアは、とても可愛い。

「わっ、私などが傍にいても、陛下のお心を癒すことはできません!」
「? じゅりあ、じーくふりーど、すき」
「ちがちがちが違いますっ、なっ、何を……!」

全力で否定されているが、その目の泳ぎ方も赤面具合も、今の言葉を全く否定できていない。
ほほう、これはいわゆる身分違いの恋というやつだな。
私は久しぶりに元の世界で読んだティーンズ小説を思い出した。
たしかに、お姫様扱いのヒロインに懸想した騎士は、その身分の違いゆえに色々と思い悩んでいた気がする。
ジュリアもそうやって色々と悩んでいるのだろうか。
身分なんて考えたことなかったけれど、この世界ではみんなの意識の中に、きちんと存在しているのだ。
その感覚は現代日本人の私にはちょっと難しかったが、この世界ではこれこそが普通の感覚らしい。
ジュリアは何度も「違います違います私はそんな邪な思いを抱いて陛下にお仕えしているわけではございません!」と声を上げて、わーっと真っ赤になった顔を両手で覆った。
その様子を見て、何だか無性に、シュヴェルツに会いたくなった。







      


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