花鬘<ハナカズラ> それからどうしたかと言えば、まともに顎に拳を食らった男の人が悶絶するのを尻目に、私はさっさとテラスを下りた。 ぎょっとしたままこちらを見つめる全ての人を無視して、部屋のドアを開ける。 するとそこには「いったい今の声は何ですか」と言わんばかりの表情を浮かべた騎士さんと侍女さんがいた。 さっき私をここまで連れてきた人達だ。 侍女さんは心配そうな表情をこちらに向け、騎士さん達は「賊ですか!」とわけの分からない言葉を紡いで剣を抜いていたのだが、それがいけなかった。 そもそもこの国の人というのは総じて大きく、侍女さん達はみんな、一番小さくても170センチか180センチはあるのだ。 男の人は勿論もっと大きい。ここまで連れて来てくれた騎士さんの中で、明らかに2メートルは越えているだろうという人は少なくとも5人はいた。 皆大きくて、険しい顔をしていて、そして剣なんてものまで抜いたものだから、私は我慢できそうになかった。 高所恐怖症なのにあんなところまで連れて行かれるし、初対面の男にキスはされるし、2週間経っても家に帰れることなんて全然無いし、言葉は通じないし、外には出られないし、家に置いてきた超ビッグプリンは賞味期限が切れているに違いないし。 とにかく全てのことがいっきに思い出されて、私はぼろりと涙を零したのである。 それに驚いたのは、一人や二人ではなかった。 いきなりぼろぼろと泣き出した私の正面で、剣を抜いた格好のまま騎士さん達はぴったりと固まった。 さすがに声を上げて泣くことはしないが、豪快に涙を流す私にみんな驚いたらしい。 私は幾対もの視線を向けられたまま、ひんひんと泣き続けた。 「……どういうことだ、これは」 背後から聞こえたのは低い美声で、私は思わずびくりと背中を揺らして飛び跳ねた。 地を這うような声が怖くて、慌てて近くにいたメイドさん、アリーにしがみつく。 しくしくと泣き続ける私に、人のファーストキスを奪った変態は一瞬たじろいで、アリーに視線を向けたようだった。 「ど、どういうことだ、と申されましても」 「その娘は、私の妻になるのではないのか」 「それは間違いございません。間違いございませんが、……奥方様は、その、言葉が分からないようで」 分からない言葉の会話が流れる室内に「言葉が分からない?!」と悲鳴のような怒声のような声が上がった。同時に私もびょんと飛び跳ねて、更に涙を流す。超怖い。 アリーは「リツ様が怖がっていらっしゃいますので、大声を出すのは止めてください」と言葉を紡いだ。 変態は一瞬ぐっと言葉に詰まる。 「っ、それならそうだとどうして報告しない!」 「ゼフィー様が自分が報告しておくので、私たちは黙っておくようにと仰いました」 「ゼフィー?!あの男!」 さっきまで人形のように表情が変わらず、ほとんど言葉も口にしなかった男の人だが、今は騒々しいほどに元気だ。 私はアリーにしがみつきながら「もう部屋に戻りたい」と心底思った。 けれどそれは叶うことなく、変態は私の肩を掴み、少しばかり強引に変態の方へと顔を向けさせた。 またキスでもされるのではないかと思って、嫌だ嫌だ触るな離せ!とじたばたしてみたものの、肩を掴む手は緩むことがない。 私は喉を引き攣らせ、涙をぼろぼろ零したまま、怖い顔をした男の人を見つめた。 綺麗な分だけ余計に怖く感じる。しかも、大きい。何でこんなに大きいのだ。せめて屈むとか膝立ちになるとかすればいいのだ。怖い。 ひくっと喉を引き攣らせると、彼は困ったような表情をして、けれど強い口調で「言葉が分からないのか?」と尋ねてきた。 何言ってるのか分からないんだってば! いやいやと首を横に振ると、やっぱり困った顔をされる。 私はひんひんと泣きながら、「ありー」と名前を呼んだ。 アリーは「リツ様」と傍に寄り、レースのついたハンカチを差し出した。 それでごしごしと涙を拭うと、アリーは「リツ様、あまり擦りすぎますと……」と心配そうに眉を寄せたが、私は勿論言葉の意味が分からなかったので、そのままごしごしと涙を拭き続けた。 こちらの世界で知っている言葉といえば、お世話をしてくれるメイドさん達の名前だけだ。 ということで、私はもう部屋に戻りたいという意味をこめて、彼女たちの名前を呼んだ。 名前を呼ばれたメイドさん達は固まる騎士さんたちを押しのけ、「リツ様」「リツ様」と心配した様子でこちらに寄ってくる。 この変態をどうにかしてくれとメイドさん達の後ろに隠れたが、変態は偉い人なのか、何やら一言を発しただけでメイドさん達はびしゃりと固まった。権力の乱用はいけないのだ。 そして再び手が伸ばされたが、その手に掴まれるのが怖くて、私は慌てて今度はドアの外にいた騎士さん達の間に潜り込んだ。 ぎょっとされたが、ええい、か弱い女の子が変態に捕まえられそうになっているのだから助けてくれたっていいじゃないか。 あの人怖いから嫌だ、と大きな手から逃れようとしたが、やはりというべきかすぐに捕まってしまう。 「ありー!」 「私はアリーじゃない。シュヴェルツだ」 うるさい、何を言ってるのか分からないと何度言わせるのだ。いや、言えてないけれど! 変態は自分を指差し、「シュヴェルツ、だ。自分の夫の名前くらいは覚えろ」とわけの分からない言葉を紡いだ。 「シュヴェルツ」 「ありー」 「違う。シュヴェルツ」 「……ありー」 「シュヴェルツ」 「しゅべ、しゅべるつ……」 シュヴェルツ。それがこの変態の名前なのだろうか。 嫌々「しゅべるつ」と名前のような単語を口にすると、彼は今度は私を指差した。人を指差すのはやめて欲しい。お行儀が悪いとお母さんに叱られたことがないのだろうか。 しかし、この指はどういう意味なのだ。私にも名前を言えということか? 「……りつ」 「リツ?」 こっくりと頷いて肯定を表すと、シュヴェルツとやらは私の名前を何度か下の上で転がして、最後に「来い」と一言を口にして私の手を引っ張った。 おそらく彼にそのつもりはなかったのだろうとは思うが、いきなりすごい力で腕を引っ張られ、私はべしゃっと転ぶことになってしまった。痛い。 先月18の誕生日を迎えたレディーなのだから、さすがに痛みで泣くわけがなく、だがしかし驚いたと目をぱちくりさせると、シュヴェルツは慌てて私を抱き起こす。 「悪かった。痛むか?」 「?」 言葉が分からない、と首を傾げると、シュヴェルツは困ったような表情を浮かべたまま、私を見つめる。 そんな綺麗な顔を向けられると、さっきのキスも「こんな美形とファーストキスだなんてむしろ幸運だったのではないだろうか。きっと美しい思い出になる」なんて思えてしまうから不思議である。 いやいやしかし、許さない。許してはならぬ、と私はぐっと拳を握った。 そんな決心をしていることなど露知らず、シュヴェルツは「仕方ない。ゼフィーを呼べ。自室で寝込んでいようが、何としてでも連れて来い」とドアのところで固まる騎士さん達に声をかけた。 一人が慌てた様子でどこかに駆けていく、その背中を見つめ、私は口を開いた。 「ぜひー」 「その名前は覚えなくていい」 「なまえ」 「……本当に言葉が分からないのか、リツ」 「りつ」 それは私の名前だぞ、と目をぱちぱちすると、シュヴェルツは深く重い息を吐いた。 ちょっと、何で溜息なんて吐くんだ。溜息を吐きたいのは私だ。今のこの状況を全く理解できていないのだから。 しかし、久しぶりに男の人というものを見た気がする。 この変な世界に来てしまってから周りにいたのは女の人、というかメイドさん達ばかりだったし、なんて考えて、自分の肩にそっと置かれている大きな手に気付いた。 ちょっと、セクハラはやめて欲しいんだけど、という意味を込めてその手をぺちぺちと叩く。 「何だ」 「……なんだ」 意味が分からないのだ、全く分からないのだ。いいからこの手を離せ。 それに、お腹が空いた。今日は朝から何も食べていない。何か食べ物が欲しい。 我ながら能天気だとは思うが、私にとってはこのわけの分からない事態は2週間前から始まっているのだ。 すでにじたばたする時間は過ぎたし、ホームシックは1週間前に終わったばかりだ。もうしばらくしたら間違いなくセカンドホームシックになるとは思うが、とりあえず今は落ち着いている。 最初の3日は泣き暮らし、言葉が伝わらないことに絶望し、メイドさん達に当り散らしたが、2週間も経てばさすがに落ち着いたのだ。 「ありー」 こっちにいて、と視線を向けると、アリーはシュヴェルツに窺うような視線を向けた。 シュヴェルツが仕方なさそうに頷くのを確認して、アリーはこちらにそっと寄ってくる。 ありー、ありー、と名前を呼んで、この男の手を私の方から外してくれと懇願の視線を送った。 アリーは首を傾げ「どうかなさいましたか」と言葉を紡いだが、アリー、残念だけど言葉の意味が分からない。この手をどうにかして欲しいのだとぺちぺち叩くと、上から「やめないか」と声が降った。 何て言ったのか分からずにきょとんとシュヴェルツを見上げると、「やめなさい」と再び声が降る。 「あめ、な、い」 「やめなさい」 「あめやさい」 「やめなさい」 「やめなさい」 で、どういう意味?と首を傾げる。 それと同時にドアの向こう側から何やら声が聞こえてきて、私はそちらへと視線を向けた。 騎士たちを押しのけて、部屋に入ってきたのは一人の男の人で、私はその顔に何だか見覚えがあった。 銀色の髪にアイスグリーンの瞳。氷のように冷たい容貌。美形かと言われると別にそういうわけではないのだが、仕事のできるサラリーマンのような風貌で、雰囲気がちょっと格好いい。 おそらく四十歳は超えているだろう。着ている服は―――私の生まれ育ってきた世界の常識で考えると―――コスプレとしか思えない妙な長衣だけど、何だかやけに高そうだった。 ううむ、しかし、どこかで見たことがある。そう思いつつその彼を見つめると、彼は部屋へと入ってすぐにばたんと扉を閉めた。騎士さん達は放置プレイにするらしい。 そのアイスグリーンの瞳が瞬きをして、そして彼は面倒くさそうにシュヴェルツを見つめた。 その視線に隣のシュヴェルツは視線をきつくする。 「ゼフィー、お前、どういうつもりだ」 「何のことです。ここ十日ほど魔術師が全滅していたのですから片付けねばならぬ仕事は山ほどあるので用事があるのでしたら早く仰ってください」 「何のこと、ではない。どういうことだ、これは」 「だから、何のことかとお伺いしております、王子」 これだ、とシュヴェルツは私の背中を軽く押した、つもりだったのだろうが、その勢いのせいで私はよろりとふらついた。 さっきから何度も何度も何だというのだ!暴力大反対!もう一回殴るぞ! 私は憤慨しながらシュヴェルツを睨み付けようとして、けれどゼフィーと呼ばれた彼に、視線を落とされた。 厳しい数学の先生を前に宿題を忘れてきたことを報告する気分である。 今回は疚しいことは全くないというのに、こちらを見下ろすアイスグリーンの瞳と結ばれた唇のせいで、やけに緊張してしまった。 「どういうことなんだ、何故この娘は言葉が分からない?しかも、それならそうと何故言わない」 「私もつい数日前まで寝込んでいましたので」 「だったら何故他の人間に言葉を託すなり何なりしなかった!メイドにまで口止めした理由は何だ!」 「他人の口を通しますと、事実が曲がって伝えられる恐れがありますので。これは私の口から誤解なきように報告せねばならないと」 何やら言葉を交わしていた2人だが、シュヴェルツはいい加減ぶち切れたらしい。 大きな声を上げたシュヴェルツに、私は思わずびょんと飛び跳ねた。こ、怖い。 私の様子にゼフィーは眉を寄せ、「奥方が怯えていらっしゃいますが」とシュヴェルツを見やった。 そうしてから呆れたように溜息を吐き、もう一つ、他の人間に言葉を託さなかった理由ですが、と口を開く。 「面白そうだったからです。残念ながらこの目で王子の婚儀を拝見することはできませんでしたが―――それで、何か面白い事態は起こりましたか?」 彼が何と言ったのか、私には全く分からなかったが、シュヴェルツの瞳の冷たさから考えるに、相当妙なことを言ったのだと、思う。 |