花鬘<ハナカズラ> それは、ジークフリードが倒れてから3日目の夜のことだった。 細い三日月の昇る静かな夜。ベッドの中でうとうとしていると、ドアが僅かにきしむ音がした。 たまにメイドさんがやって来て、私がちゃんとベッドに収まっているか確認しているので、今回もその類かと思ったら違ったらしい。 重い瞼を上げてドアへと視線を向けると、そこには男性らしいシルエットがあった。 薄暗い部屋、ベッドの中。 ふと思い出されたのは、シュヴェルツと喧嘩らしきことをして、仲直りしようと手紙を書いて部屋で待ち伏せしたあの夜のこと。 月明かりの中、とても綺麗だったシュヴェルツの顔を思い出した。 勿論、こんなどこだか分からない場所にいるはずもないのだが、ぽろりと零れたのは他の誰の名前でもない。 「しゅべるつ……?」 もうすでに懐かしささえ込み上げるその名前に、私は何だか無性に寂しくなった。 お父さんお母さん、お兄ちゃん、さとちゃん。私の家族。 彼らに会えないのは勿論寂しいが、やっと少しずつ仲良くなってきた異世界の弟、シュヴェルツにまで会えなくなるなんて。 口煩いしスキンシップ過剰だが、たまには優しい私の弟。 叱られても、うだうだと注意されてもいいから、シュヴェルツに会いたい。アリーやリアンにも会いたい。寂しい。 夢現のまま、寂しさに胸がきゅうと痛み、その痛みにつられるようにほろほろと涙がこぼれていく。 家族に会えない寂しさはもう散々味わい尽くしたが、シュヴェルツに会えない寂しさでこんなに悲しくなるなんて。 自分の中でそんなにもシュヴェルツの存在は大きくなっているのだろうか。ぼんやりした思考でそんなことを思う。 「しゅべるつ……」 もう一度ぽたりとその名を落としたところで、今度はぎしりとベッドが軋んだ。 「イーア」と私を呼ぶ低い声は一体誰のものだっただろう。眠くて頭が働かない。 「しゅべるつ……?」 明らかに異なることは分かってはいたが、他の誰の名も思い浮かばなかった。 シュヴェルツの名前にその人は逡巡してから、ベッドからはみ出ていたらしい私の手に自分の手を重ねた。少し肌寒い夜の空気の中、重ねられた手はあたたかく、暖をとろうと軽く手を握る。 するとその人はぱっと手を放してしまい、けれどもう一度「イーア」と囁いた。 ―――なに? シュヴェルツが呼んでる気がする。 眠さで頭がうまく働かない。うぅ、と眉を寄せて小さく唸ると、少しかさついた指先が眉間の皺を撫でた。 その微かな感触は、口付けにも似ている。 おでこへのキスは、シュヴェルツがよくやる「おやすみ」の挨拶だ。 今部屋にいるのはシュヴェルツではない誰かだと分かっていたけれど、眠さでぼんやりしながら、私は口元を緩ませた。 「しゅべるつ、はらをだしてねるなよ……」 おやすみシュヴェルツ。良い夢を。 叶うなら、夢の中くらいでは叱らないで優しくしてね。 翌朝、私はなんだか清々しい気持ちで目覚めた。 カーテンの向こうの空は青く、高い。 少し肌寒かったが、朝食の温かいスープを食べ終わる頃には「さあ、今度ジークフリードの部屋でお茶をすることになったら、今まで大人しくしていたのだからそろそろ散歩をさせろと訴えてみよう!」なんて元気に溢れていた。 その願いが通じたのか、朝ごはんの最中に、アーサーから『ジークフリードの部屋でお茶をしましょう』という言葉が届いた。 ジークフリードが倒れてから、なんと4日ぶりのことである。 お誘いがかかったということは、ジークフリードの体調も良くなったのだろう。 4日も空いたのは、ジークフリードの風邪(仮)が肺炎にレベルアップしていたからなのか、大事をとって、ということなのかは分からない。 後者であるとしても、あの仕事の鬼みたいな人間が4日間ずっとベッドで寝込んでいたというはずもないだろうし、多分お仕事しつつ、ちょっと体を休めつつ……という感じだったのかもしれない。 ということで、その日のお茶の時間に、私は久しぶりに部屋の外に出ることになった。 私がこちらの国に来てしまってから早2週間が経過したわけだが、人間とは慣れる生き物である。 4日ぶりの部屋の外の風景も何だか妙に懐かしく感じてしまう。 元気になったかなー?とジークフリードの部屋を覗き込むと、迎えてくれたのは勿論ジークフリードではなく、久しぶりのアーサーだった。 「こんにちは、あーさー」 「ええ、こんにちは、奥方様」 にこやかにそう言われ、私はちらりとジークフリードの方へと視線を向けた。……元気そうだ。 ジークフリードは今日も今日とて机に向かって難しい顔をしている。 先日は体調不良そうだったが、無事通常モードに戻れたらしい。 『ご心配をおかけしました』くらいの一言はあってもいいのでは、とも思ったが、ジークフリードにそんな言葉を期待するだけ無駄だろう。 私はいつものようにソファに座り、お茶の用意を始めるアーサーを眺めた。 そして。 「イーア」 それがジークフリードから私への呼びかけだったと理解するのに、数秒はかかった。 いや、だって、ジークフリードに呼びかけられたのなんて、初対面のとき1度きりなのである。 少し驚きながら、「なに?」と視線を向けたが、ジークフリードは机に視線を落としたままだ。 あれ?気のせいだったか? 私は疑問符を浮かべつつ、首を傾げた。 アーサーは私達の会話に気付かないふりをしながら、お茶の用意を進めている。いつものように3人分。 そんなアーサーにちらりと視線を向けたジークフリードは、私には視線を向けず、再び机の上の書類に視線を落とした。 「……なに?」 あれ?呼ばれた気がしたのだけど、と不審に思ったとき、 ジークフリードは相変わらずの魔王様ボイスで「許可する」と告げた。 聞いたことのない単語だ。 「ひょうか……?」 「許可、する」 「きょうか……?」 「きょ、か」 くっきりと区切られた言葉に、私は今度こそ正しい発音で「きょか」の言葉を口にした。 しかしその単語の意味は全く分からないままで、再び首を傾げる。 「なに?」 意味は何かと尋ねたつもりだったのだが、ジークフリードは“何を”許可するのかと尋ねられたのかと受け取ったらしい。 「庭に出てもいい」 “許可”という単語の意味は分からなかったが、幸いなことに、今の言葉の意味は分かった。 にわ、良い。つまり、散歩の許可が与えられたのである! 私は目を見開き、「さんぽ!?」と声を上げた。 なんと、なんと、なんと!散歩が!許可!された! 頭の中ではリンゴーンと鐘の音が鳴る。 喜びの余り万歳三唱をしようかと考えたところで、ジークフリードの視線が机の上の文字列から離れ、私に向けられた。 彼はいつもの厳しい視線をこちらへ向けたまま「ただし人は付ける」と付け加える。 オーケーオーケー、今の意味も分かるぞ。シュヴェルツにもよく言われていたからな! メイドさんとか騎士さんを連れて行けよ、という意味だ。 私は大きく頷いて、「ありがとうございます!」と声を上げた。 だって外だ!久しぶりの外なのだ! 自室とジークフリードの部屋の往復だけではやはり足りないのである。 「ありがとうございます!」 もう一度、思いっきり笑顔でお礼を言って、ではさっそく、と部屋から出ようとする。 しかしアーサーは「奥方様、お茶が入りましたよ」と私を引き止めた。 いや、アーサーのお茶は美味しいけど、でもせっかく散歩の許可が下りたんだし、ジークフリードの気が変わらない内に……そう思ったものの、せっかくお茶を入れてもらったのに、無駄にするのも勿体無い。 早めに切上げよう、と考えて、再びソファに腰を下ろした。 お茶とお茶菓子を用意してくれたアーサーは、いつものようにジークフリードのところへもお茶を運ぼうとする―――かと思いきや、ソファのところにお茶を置いて「たまには陛下もこちらでご一緒にいかがです?」とジークフリードに声をかけた。 その突然の提案に、びっくりする。 私がジークフリードの部屋でお茶をするようになった初日、アーサーは全く同じことを言って、ジークフリードから凶悪な眼差しと「いらん」という魔王様ボイスを頂戴していたはずである。そのことを忘れたのだろうか。 ここでジークフリードの機嫌を損ねては散歩の許可を取り消されかねない。 私は恐る恐るジークフリードを見やった。 断っていただいて全く構わんぞ!そう思った私の視線の先で、ジークフリードはがたんと席を立つ。 ああほらアーサーのばかー!変なこと言うからジークフリードが怒ったでしょー! そう思いつつ、ほとんど泣きそうになりながらアーサーを睨みつけた。 お茶なんて一緒にしなくていい、でも散歩の許可だけは! その思いを込めて「さんぽ!」と立ち上がる。 しかし、ジークフリードは「やっぱりだめ」なんて意見を翻すこともなく、何故か大人しく私の正面のソファにどさりと腰掛けた。 これに驚いたのは私だけだったらしく、アーサーはいつもの通りにこやかにお茶をふるまいだす。 「……?」 おかしいな、どうしたんだろう。風邪の後遺症か? 不思議に思いながら、私もそっとソファに座り直し、お茶を啜る。 目の前にジークフリードが座ったせいで、アーサーは立ったままだ。 いつもならそこはアーサーの席なのである。 「あーさー、そふぁ、どうぞ」 言いながら、自分の隣のソファをぽんぽんと叩いた。 ちなみにこの部屋には、中央のテーブルを挟んで一人掛けのソファが両脇に2脚ずつ置かれている。 アーサーはどうやらジークフリードに仕える人のようだし 、ご主 人様の隣の席に座るのは恐れ多いのかもしれないと考えたためである。 アーサーは私の提案にびっくりしてから、「いいえ、私は今日はこちらで」と部屋に置かれていた小さな丸椅子に腰を下ろした。 えっ、なんで。そんな遠慮しなくても。 というか私一人で魔王様のお相手をしたら、不興を買って散歩の許可を取り消されそうなので傍に居て欲しいのだけど。 そんなことを考えた私の正面で、ジークフリードは難しい顔をしたままお茶のカップを手に取った。 私にしては少し大きいカップも、ジークフリードの手の中だとおままごとの道具みたいだ。何だか面白い。 3人でお茶をする、という初めての出来事に、ちょっぴり困惑してしまう。 沈黙に包まれた空気の中、とりあえず「おげんきですか?」と尋ねてみた。 私の言葉にジークフリードは「ああ」と頷く。 「ぱん、たべる?ねる?くすり?」 食事と睡眠はしっかり摂ってる?薬も苦くてまずいからといって、残したりしてないだろうな。 私の言葉に、ジークフリードは再び「ああ」と頷いた。 そして再び訪れる沈黙に、私はこっそりと眉を寄せる。 こいつには会話を続けようという気持ちがないのだろうか。シュヴェルツでももうちょっと会話を膨らませられるぞ。 「てんき、いい。さんぽ、いい」 いい天気だし散歩が楽しみです、というつもりの言葉に、ジークフリードは三度めの「ああ」という頷きを返した。 ……このお茶会はいったい誰が楽しいんだろう。 つくづく疑問に思う。 そうして、お茶を一杯いただいたところで、私はちらりと窓の外を見やった。 早くお散歩に行きたい……その願いが通じたのか、二人の沈黙っぷりに苦笑したアーサーが椅子を立つ。 お茶のお代わりは?と聞かれ、首を横に振った。 「奥方様、そろそろ出られますか?侍女を呼びましょう」 「はい!」 ついに散歩の時間か!と喜んで立ち上がる。 アーサーがドアの外に控える人に声をかけている。おそらくメイドさんたちを呼んでくれるのだろう。 すぐにメイドさんたちがやって来て、「お庭に出てもよろしいと伺いましたよ」と微笑まれた。 そうなのだ!ついに許可が出たのだ!やはり先日ジークフリードが弱っているときにお姉ちゃんとしての貫禄を見せ付けたのがよかったんじゃないかと思う! そう思いつつ、にこにこしながら部屋から出ようとして、そうだ!とジークフリードを振り返る。 珍しく彼はこちらを見つめていた。 一緒にお茶をしたのが初めてなら、お見送りの視線を向けられるのも初めてのことだ。 ジークフリードの視線が書類以外のものに向けられることもたまにはあるんだなぁと失礼なことを考えつつ、私はにっこりと笑顔を浮かべた。 「じーくふりーど、ありがとうございます!さんぽ!」 それじゃあ行って来るね、ばいばい! ぴらぴらと手を振った先のジークフリードは、相変わらずの魔王様みたいな仏頂面だったが、私は浮かれた気分で廊下に飛び出る。 ぱたんと閉まった扉の向こうで、アーサーがちいさく笑うのが聞こえた気がした。 【 NEWVEL様の小説ランキングに参加しています 】 もしよろしければ、応援していただければ嬉しいです。(1ヶ月1度) |