花鬘<ハナカズラ>







月も星もない薄暗い闇の中、オリヴィア様は時折こちらを振り返り、私が付いてきているのを確認しながら庭を進んでいく。
オリヴィア様の足取りは軽く、闇夜のせいで足元もよく見えないというのに、難なく歩を進めていく。
私はそれに遅れないように、転ばないように足元と、見失ってしまわないようにオリヴィア様の背中を交互に見やって、早足で後を追った。


「おりびあさま、なに、いく?」

メイドさんたちのように「これは何々という花で、朝にしか咲かないのですよ」などという言葉も無く、ただひたすら無言で歩いていくオリヴィア様の背中に声をかける。
いったいどこに行くの?と問いかけたはずの言葉に、オリヴィア様は目的地ではなくて、「もう少しですわ」と背中で答えた。
その声は柔らかく、悪意の欠片も感じない。私は少し安心しながら、息を吐き出した。

もうすこし。

なんだ、それなら頑張ろう、とせっせと足を動かす。
あてのない散歩なのかと思いきや、目的地があるらしい。
そこにもう少しで到着するのならばこの早足も我慢してもいいかと思ったのである。



そして、オリヴィア様の歩みが止まったのは、本当にそれからすぐのことだった。
一生懸命オリヴィア様の後を追っていた私は、彼女の歩みが止まったのに気付かず、そのままその背中にぶつかってしまう。
少し早足だったため、その衝撃はそこそこのものだった。

「うぐっ、も、もうしわけありません!」
「いいえ、リツ様。大丈夫でした?」

オリヴィア様はわずかに膝を折り、心配したような表情で私の顔を覗き込む。
げんき、と声を返そうとオリヴィア様の方に顔を向けたとき、見たことのある風景が目に入った。


―――ここは。

私が最初にこの世界にやって来た場所だ。
夜の闇のせいであのときとは雰囲気が異なって見えるが、小さな泉とそれを囲む木々たちは、たしかに私が最初に見た風景と同じものだった。
一瞬の内に、郷愁の想いが胸を過ぎる。
お父さんお母さん、と諦めの滲んだ思いを感じたとき、オリヴィア様が「リツ様、お帰りになられたいでしょう?」と問いかけてきた。


「?」
「あなたの世界へ、あなたの家へ、あなたの家族や友人の元に、帰りたいでしょう?」
「かえ……?」

言葉が通じていたら、私はもちろん猛然と頷きを返しただろう。
しかし、オリヴィア様の言葉の意味をうまく捉えられず、私は曖昧な表情を浮かべてしまった。
オリヴィア様は私の反応に、焦れたように「お父様やお母様にお会いになりたくはないのですか?」と私の肩を掴む。

「おとうさま、おかあさま?」
たしか、お父さん、お母さんという意味の単語のはずだ。それに、“会う”、“〜したい”、語尾が上がっていたので疑問文。
両親に会いたいかと聞かれたのだろうか、と思いついて、私は慌てて頷いた。

「あう、したい!」
私の返答に、オリヴィア様は今度こそ満足気に頷いた。
「では、あちらにお入りになって」
泉を指差したオリヴィア様の言葉に、私は内心で「ええっ」と声を漏らした。
多分泉に入れと言われたのだけれど、えええ、でも、さすがにちょっと嫌だ、と思わず身を引いてしまう。

だって、泉なのだ。
水は澄んで綺麗そうだけど、プールでも海でもない野外の水の中に体を沈めるのには、現代日本を生きてきた女子としては、勿論抵抗がある。
しかも今は夜で、澄んだ水は何となく恐ろしく気味が悪い。ついでに現在の気温は少し肌寒いくらいで、水の中に入ったら風邪を引いてしまいそうではないか。
そんなことを考えながら、でも、と思う。


でも、本当の本当に帰れるのなら。

気味が悪いし、水は冷たそうだけれど、本当に帰れるのなら、勿論この中にだって入れる。
すごくすごく嫌だし、せめて昼間にして欲しいけれど、もしかして夜というのに意味があるのかもしれない。
色んなことを考えている間に、じわじわと「帰りたい」の思いが強くなっていく。
その思いを噛み締めながら、私はオリヴィア様をじっと見つめた。
オリヴィア様はいつものようにモナリザの微笑を浮かべていて、ウソをついているようには見えない。―――けれど、でも、本当に?

「わたし、いく、できます?」

本当に元の世界に戻れるのかと尋ねると、オリヴィア様は「ええ勿論」と笑う。
「さあ早くしなければ。他の者に気付かれてしまっては、帰してさしあげられなくなってしまいますわ」
少し焦った様子のオリヴィア様の言葉はその分だけ早口で、まったく聞き取れない。
何て言った?と首を傾げるのと同時に、お城の方からピーッと高い笛の音のようなものが聞こえた。
ついでにいくつかの松明らしき明かりまで灯る。
遠くて声の内容は全く聞き取れなかったが、お城で何かが起こったのか、真夜中だというのにたいへんな騒々しさだ。

まさか敵襲!平和な世界だと思っていたけどやはり刺客とかそういうものが存在したか!とびっくりしたところで、オリヴィア様に強く腕を引 かれた。
女性の力といえど、異世界人の筋力は、元の世界の男性と同程度のものである。
その力によろけた私は、3秒の浮遊感の後、派手な音をたてて泉へと落っこちた。
それほど深くはないので勿論溺れることはないが、水をたっぷりと含んだナイトガウンは重く、体に纏わりつく。

突然何をされたのか理解できず、泉に落ちたままオリヴィア様のほうへ顔を向けると、彼女は胸の谷間から何かを取り出した。
何かを入れられるほど豊かな胸の谷間に驚くべきか、そんな不安定な場所ではなくてポケット的なものはなかったのかと尋ねるべきかとくだらないことを考えたところで、オリヴィア様はその“何か”―――おそらく、固形の、石のようなもの―――を泉に放る。
それは瞬く間に水に溶け、同時に水の粘度が増したようだった。

どろりとした水が体に纏わりつくようで、気持ち悪い。
その不快さから逃れるように泉から上がろうとしたけれど、今度はアズさんが「動いてはいけません!」と叱咤の声を上げた。
シュヴェルツからよく聞く、禁止系の言葉に思わず動きを止める。
アズさんは「いけません。動かないで」と噛み締めるように言って、私を見つめ続けた。
その瞳の強さに、思わずたじろいでしまう。
さっきまで肌寒い程度にしか感じていなかった夜風も、水で濡れた肌にはとても冷たくあたる。
そのせいなのか、それとも今の自分が置かれている居心地の悪さによるものなのか、背筋がぶるりと震えた。
オリヴィア様はぶつぶつと念仏のように何やら唱え続けていて、アズさんは私の一挙一動をじっと見つめてくる。

夜、泉、変な呪文。
よくない宗教の儀式のようなこの状況はいったい何なのだ。これで本当に帰れるのか?
大きな不安の中で、夜空の星のように希望の光がちらちらと輝く。これで本当に帰れるのなら、と胸が小さく震えた。
しかし。

「ぎゃあっ」

重い水の底から大きな手が伸びてきて、私の足首を掴んだような、そんな感触がした。
そのあまりのおぞましさに、私は柄にもなく、絹が裂けるような細い悲鳴を上げてしまった。
家に帰れるかもという淡い期待よりも、突然未知なる物が足首に絡みつくという恐怖が勝つ。
アズさんの制止を無視して、泉から上がろうとするが、足がもつれてうまく進めない。
水分を吸って重くなったガウンを脱ぎ捨てて、水をかき分けると、必死の表情をしたアズさんが声を張り上げた。

「リツ様、いけません。どうかそちらにいらして!」
「いや!」

そこにいろと言われているのは分かるが、絶対に嫌だ。
だって、足に、何かが!

ばちゃばちゃと激しい水音をたてたせいか、松明の灯りと数人の声がこちらへどんどん近づいてくる。
それに気付いたアズさんは切迫した表情で、迷ったように一瞬だけ視線をさまよわせ、次の瞬間には私を絡めとるようにして自身も泉へと身を落とした。

「あず!」
何を!と声を上げる。
アズさんは私にしがみつくように覆いかぶさって、ぎゅっと目と口を閉じた。

いったい何なの!―――思わず日本語で喚いたところで 、薄く額に汗をかいたオリヴィア様はぱっと顔を上げた。
月の光に照らされたオリヴィア様は、こんなときだというのに物凄く美しい。月か星か夜の妖精だといわれても信じてしまうかもしれない。
オリヴィア様はその妖精の如くの美貌をふわりと緩ませ、モナリザの微笑を浮かべて、一言だけを口にした。

「さようなら」

私がこの世界にやって来たのは、雨が目に入ってしまった瞬き一瞬の間だったが、今度は瞬き一瞬の時間さえもない。
脳内異世界語辞典から「さようなら」の意味を探し出す前に、私は泉の中から消えてしまった。







〜 2章 おしまい 〜









      


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