花鬘<ハナカズラ>







その日、シュヴェルツ・フォン・エルヴェールは婚儀を行うことになっていた。
シュヴェルツにとっては何の感慨も沸かないことだったが、周囲は騒がしい。
あれやこれやと慌しく人々が動き回る様子を、しかしシュヴェルツは祝いの日だというのに、今日も今日とて溜まっている政務を片付けながら無感情な目で眺めていた。

自分の年齢を考えてもそろそろ妻を娶るのは当然のことだとは思うし、相手が見ず知らずの女であることも、王族のみならず貴族の間でさえ特におかしなことではないのだから構わない。
だがしかし、今回の婚儀は必要なものだとは思うが、喜びが湧き上がってくることは勿論無かった。
周囲から「おめでとうございます」と散々祝福されたものだから、ああそうかこれはめでたいことか、とは思ったが、見ず知らずの女との婚儀に喜びや、もしくは悲しみを見出せるほど、シュヴェルツは婚儀というものに何の思い入れもなかった。
特に妻に迎えたいと思うような好いた女もいなかったし、今後そんなことがあれば後宮にでも迎えればいいだけの話である。

―――願わくば、妻がそれなりの美人で愚鈍ではないように。

彼はそれだけを思いながら、やはり積み重なった書類に手を伸ばし、再びそれらに視線を走らせた。
その近くで同じく書類に視線を落としていた男が「シュヴェルツ」と呆れたような声を出す。
何だ、と書類に視線を落としたまま返ってきた言葉に、男は今度こそ溜息を吐いて、ペンを置いた。

「なあ、何で俺らはこんなめでたい日にまでこんなことやってるわけ?」
言って、ぴらりと持ち上げた紙には地方の治水に関する懸案が記されている。
こんなこと、と言えるようなくだらないものではないけれど、それでも。
「婚儀の日にまでやらなくてもいいだろ」
男はそう思っていた。
けれどシュヴェルツはその言葉を「明日の仕事が増える」とだけ言って、一蹴した。

「いやいやいや、そうだけど」
「そもそもこれ以上私が用意することはない。あと一刻もすればさすがに止めるから安心しろ。さすがに婚儀には出る」

それはそうだろう、と男は思った。
しかし、シュヴェルツがこういう男だということはもう十年にはなろうかという長い付き合いで分かっていたので、溜息一つを零しただけでそれ以上咎める言葉を紡ぐことはない。
まあこういう奴だしな、などと思いながら「そういえば」と男は口にする。

「そういえば、どんな女なんだ?」
「何が」
「いや、何がって、お前の妻になる女」

異世界から呼び出したことは知っている。
シュヴェルツが生まれた際に詠まれた予言の中に、要約するならば「妻は異世界から召喚すべし。そうすればこの国は繁栄するだろう」というものがあり、それをそのまま実行したのである。
馬鹿らしいとは思うが、数代前にも同じく異世界から女を呼んだことがあり、その前にも2度ほど同じことがあったらしい。
事実その代で国は少しずつ繁栄していったし、その方法は魔術師達に相当な無理をさせればできぬことでもなかったので、今回も「じゃあやっちまうか」と軽いノリで実行されたらしい。
それからしばらくは魔術師達が使い物にならなかったが、それでも14日も経った今では半数以上が復帰してきている。
まだ本調子ではないらしいが、それでも動けるし話せるし仕事もできるようになった。

召喚はめでたく成功し、一人の娘が呼ばれた。
その娘は今、婚儀を控え東の塔で静かにそのときを待っている、らしい。
その姿は世話をしている侍女達と、彼女を呼んだ魔術師達以外は見たことがなく、しかも魔術師のほとんどが成功した途端に疲労困憊でばたりと倒れて気を失ったという話だから、彼女の姿を見たことがある者は数えるほどしかいなかった。
話に聞いた限りでは、黒い髪に黒い瞳の少女だという話で、年の頃は13か14らしい。
今年22になるシュヴェルツとは少し離れているが、過去には10の子供が呼ばれ、20の王子の妻になったということもあったのだから、まあそこの辺りはどうにかなるだろう。

13,14でも色気のある娘は十分いるし、なんて思いながら答えを返さないシュヴェルツを見つめると、シュヴェルツは「ああ」と頷いて、男を見やった。

「知らん」
「しら、……え、まだ会ってないのか、お前!」
「ああ。そもそも会えるはずがないだろう。行っても追い返されるに決まっている」

この国では、婚儀を行う7日前からは当日までは、夫となる人間といえど父であろうと、男と会ってはいけないという風習があるのである。
今時そんな風習を守っている人間は少ないが、王族となればそういうわけにもいかず、それを守るのが掟だ。
シュヴェルツは特に自分の妻になる人間に興味が無かったし、婚儀を迎えるときとなれば妻の顔を見ることも話をすることもできるのだから、わざわざ掟を破ってまで妻の部屋に忍び込むことをする必要も無い。
だから婚儀を数時間後に控える今でも妻の顔は知らず、名前さえも知らなかった。


「えー、でも自分の妻になる女だろ。興味沸かねえ?つーか、7日前までならいいわけで、喚ばれたのは14日も前だろ、顔くらい見る暇はあったんじゃねぇの?」
「沸かないわけではないが、もうすぐ分かるだろう。その女がどんな女であろうと私の妻になることは変わりない。そもそも忙しくて顔を見に行く暇も無かった」
「嘘つけ!そりゃ忙しかったけど、お前、後宮には行ってただろうが!」
男の言葉にシュヴェルツは一瞬言葉に詰まり、しかしすぐにいつもの通り、とんと書類に判を押した。そうして男に冷ややかな視線を送って、口を開く。
「そんなことはどうでもいいからさっさと手を動かせ」




そんな会話をした数時間後、シュヴェルツは初めて自分の妻に会うことになった。
白いドレスを身に纏った少女は、年の頃が13か14だという話の通り、小さい。
自分の胸ほどまでしかない身長の少女は、ドアの前で固まって動けないようだった。
困ったように辺りを見渡している、その表情はヴェールに隠れて見えなない。

侍女達が近付いてそっと手を引き、妻を促すと、彼女はおずおずとこちらに近寄ってくる。
何らかの口上―――例えば「お会いできて嬉しいです」や「不束者ですが、これからよろしくお願いいたします」など―――を述べられると思ったが、一言も口にしようとしない少女に少しばかり眉を顰める。
それでも、突然異世界から呼ばれて従順に日々を過ごし、この結婚にも反対をしなかったというのだから、それだけで褒めてやるべきかもしれない。

普通なら逃げるなり暴れるなり何なりするだろうに、彼女に付けてあった侍女達は「……お、大人しく、過ごしていらっしゃいます」「せ、先日は詩歌をお聞かせしたのですが、そのときも瞳に涙まで浮かべて」と語っていた。
その話をしたときの侍女達が挙動不審だったのが気になるが、もしかしたら緊張でもしていたのかもしれない。だからあまり気にしてはいなかった。
詩歌を聞いて涙まで浮かべるとは感情豊かなのかもしれない、と思ったシュヴェルツは、まさかその妻が眠すぎて欠伸をして涙を浮かべたのだとは、思いも寄らなかった。


手を差し出してもなかなかそれに手を重ねようとせず、戸惑うような素振りを見せた少女は、それまで後宮の女を相手にしてきたシュヴェルツにとっては新鮮で、なかなか好感が持てるものだった。
「手を」と口にしてもなかなか手を重ねないので、まさか結婚の相手が私では嫌だということか、そのようなこと今更言われても困るのだが、と一瞬不安に思ったが、ぽんと手を重ねられ、安堵の息を吐く。

そっと手を引いてテラスへと誘うと、そこには国民が集まっていた。
一斉に上がった歓声に、隣の少女は驚いたようにびくりと背中を揺らした。
これから背負わなければいけない責任の重さに怯えたのか、小さく震えているようだ。
自分の妻になったからには、たしかに色々と責任を負ってもらうことになるが、相手はまだ少女である。
そうまで気負わなくとも、そもそもまだこの国にも慣れていないのだから、ゆっくりと慣れていけばいい。
この国にも、いずれ王妃となるその責任の重さにも。
横で気恥ずかしそうに民衆に手を振る少女を眺めながら、そんなことを思った。

そうこうしている間に神父がテラスへと上がり、口上を述べ始める。
それと同時に、隣の少女は怯えたようにテラスから降りようと手を引いたが、婚儀はまだ途中だ。勿論そんなことさせられるはずがない。
手を離さずに握ったままでいると、少女は震えながら、テラスから降りることを諦めたようだった。

朗々と響く神父の声を、隣の少女はぴくりともせず聞いている。
いや、少し震えているが、緊張してのことだろう。シュヴェルツ自身も成人の儀のときにこうしてテラスへと上がったときは震え上がりそうなほど緊張したものである。
妻となる人間にあまり期待はしていなかったが、この少女とならそれなりに上手くやっていけることだろうと思った。
手を重ねることにさえ戸惑う少女の初々しさは愛らしいと思えるし、今は少しばかり、というか小さすぎるがあと数年もすれば少なくとも自分の肩ほどまでは身長も伸びるだろうし、肉付きもよくなるだろう。

そんなことを考えている間に、神父の言葉は「誓いの言葉を」とよく響く声で言葉を紡いだ。
それに「誓います」と言葉を返すと、神父は次に少女に向けて「誓いの言葉を」と言葉を向けた。
しかし少女は緊張していて声も出ないのか、返事をしない。
数秒経っても答えない少女の手を軽く引き、返事を、という視線を向ける。
それでもなかなか口を開こうとしない少女に「誓います(イーア)」と小さく呟くと、彼女はおずおずと「誓います」の言葉を唇に乗せた。

まさかここで「誓えません」などと言われたらどうするか、と一瞬だけ心配に思ったが、それも杞憂で終わったらしい。
神父が再び「誓いの言葉を」と口にし、今度こそすぐに「誓います」の言葉を返した少女を見つめつつ、安堵した。少し舌足らずの声は、甘く耳をくすぐる。
そろそろ婚儀も終わる。これが終わればこの窮屈な服を脱いで風呂に入ろうなどと思いつつ、少女の手を引いて、テラスの中央まで進み出た。
少女の体は緊張で硬くなっていて、これからもこうして民衆の前に立つことも多くあるだろうが、大丈夫だろうかと今後のことを考える。
それでもその緊張した様子は不快なものではなく、むしろ微笑ましく、そして愛らしかったし、13の少女に緊張するなというのも酷な話だ。いつか慣れればそれでいい。

そっとヴェールを退けると、少女は眩しそうに目を瞑った。
ヴェールに隠れていた顔は薄く化粧を施されていて、なるほどこういう顔をしているのかと、その顔を見つめた。
美姫というほどでもないが、ぱちぱちと瞬きをする瞳が印象的で、なかなか愛らしいかもしれない。
私が少女を検分するのと同時に、少女もじっとこちらを見つめてきて、少しばかりたじろいだ。
興味津々といったような視線をこれほどまでに向けられたのは初めてのことだったし、この国で黒い瞳も黒い髪も少し珍しい。居なくはないが、数は少ないのだ。

吸い込まれそうだなんて思いながら、そっと少女の顔を持ち上げる。
きょとんとした表情を浮かべられ、これからする行為に若干の罪悪感を覚えた。いや、ここにいるのだからこの少女も理解しているだろうし、夫婦となるのだからおかしいことではないのだが。
それでも、今から何をするのだろうとでもいうような視線を、年が十も下の少女から向けられるのだ。何かいけないことでもするような錯覚に陥ってしまう。


柄にもなく少し緊張しながら腰を屈め、そっと唇を重ねた。
柔らかい感触は今まで何度も味わったことがある感触だったが、この少女とこれから寄り添って人生を歩んでいくのかと思うとなかなか感慨深いといえば感慨深い。
それにしても、相手が変な女でなくてよかった、と唇を重ねながら思った、そのときだった。

「ぎやああああああー!」

少女は奇声を上げて、飛び退いたのである。
いったい何が起こったのか分からず、呆然とその少女を見つめると、少女は聞いたことの無い言葉で何かを叫んだ。
私は勿論、神父も、部屋の中でこちらを見守っていた侍女達も、下に広がる民衆も、皆固まっている。
そんな中で、一人顔を真っ赤にした少女は、ぐっと拳を握り、そして。



その後は、もう、聞かないで欲しい。
ちなみにもうしばらくしてから判明するのだが、この少女、歳は今年18になったというのだから異世界というのは本当によく分からない場所だと、そう思う。