ぐるぐると、世界が回る。いや、違うか、私の目が回っているのだ。 気分の悪くなるような感覚に吐き気を耐えながら、「死ぬ……」と呟くと、訝しげな声でどうかしたのかと 問われた。 どうしたもこうしたもない。あの、変な花の匂いを嗅いだ途端に気分が悪くなったのだ。 でも、そんなことあるはずがない。花のせいで気分が悪くなるなんて、不安になるなんて、 泣きたくなるなんてあるはずがないのだ。 言っても理解されないだろうと思ったので、何でもないと一言だけ呟いて、縋るように大きな背中に ぽてりと頭を置いた。 背中の小さな振動によって、彼が小さく笑う気配が感じられる。 仕方ないな、とでも言うような優しい笑い方だ。 風で花が揺れるみたいに小さくて、甘くて、でも少しだけ切なくなる、そんな。 ああ、この人、マッティとかいう女の子のこと相当好きだったんだなぁと、泣きそうになりながら 思った。すごく寂しくなりながら、ただそう思った。 寂しさも不安も全部どこかに行ってしまえ!とばかりにぎゅうぎゅうと背中に へばり付いて、少しだけ涙を滲ませる。 それから少しだけ元気を取り戻したのは、彼が「着いたぞー」と言いながらピタリと止まった時だった。 ―――変な建物。 それが、私が神殿とかいうものを初めて間近で見たときの、率直な感想だった。 呆然と見上げる目線の先には、卵の殻で出来たような乳白色のつるりとした石の壁。 卵の殻にニスでも塗ったのかもしれない。 けれど卵の殻というには、それはかなりの厚みがありそうだ。 負ぶってもらっている背中の上から手をいっぱいに伸ばして、拳で壁を叩いてみても軽い音などしない。 ごつん、と重い音がした。 うむ、やっぱり石だ。乳白色の、石。 どうして壁に石同士の継ぎ目がないのか気になったが、天国ってすごい技術が あるんだなあ!と、ちょっとわくわくしながら、とりあえずは外観を全て把握しようと視線をぐるりと回した。 ほああ、と間抜けに口を開けて、空に向かって伸びるような建物を見つめる。 高さで言えば、3階か4階建てのマンションに相当するだろう。 なんとも不思議な形である。途中までは円柱で、天辺はまあるい球を半分に切ったものを被せてあるみたいだ。 しかも、上の方の半球は多分硝子か何か。陽光が反射されて、色とりどりの光が空へ伸びている のが見える。 ステンドグラスみたいになっているのかもしれない、と思った。 真っ白の壁とステンドグラス。この二つが私に与えるイメージといえば、ただ一つ。 十字架は無いけど……まさか、教会?と辺りを見回してみると、不思議な格好をした女性を発見した。 真っ白の長い長い布を身体に巻きつけているような服。どこかの民族衣装にこんなのがあった気がする。 その布の裾には、不思議な模様が刺繍されていた。 虹色としか表現できないような不思議な色の糸で描かれた模様は、まるで何かの陣のようだ。 「マッティ?」 辺りをきょろきょろと見回したり、思案したりする私を不思議に思ったらしい彼が 突然名を呼んできた。 私、マッティって名前じゃないんだけどなあ……そう思いながらも一応自分が呼ばれたという事は 理解できたので、少し不機嫌になりながらも口を開く。 「……何?」 「何、って。お前さっきから何でそんなにきょろきょろしてんだよ」 眉を顰めて不思議そうにそう問われても、困る。 だってこんな変な世界、初めて来たんだから。 気になることを尋ねようと、ねえ、と声をかける。無知は罪だけど、決して恥ずかしいことではない。 つい、と荒れた手の指先をさっきの女性に向ける。 花壇の世話でもしているのか、それともアレがファンタジー世界ではお馴染みの薬草というものなのか は定かではないが、そんなことはどうでもいい。 耳に唇を寄せて、小さな声で言葉を紡ぐ。内緒話でもするように、こっそりと。 「あの、変な色の糸、どうやって作るの?」 銀色の三日月の光と、太陽と、咲き初めの薔薇と、芽吹いた若葉と、砕いた宝石と、とにかくそんな 綺麗なものをたくさん溶かした染料で染めたような糸に、私はすごく驚いた。 あの糸で布を織ったら、きっとすごく贅沢な布になるんだろうなあ、なんて思いながら、私は彼の返事を待った。 そんな私の愛らしい疑問を、1+1=2だと教えてやるようなほどあっさりと簡単に、彼は一蹴した。 ゆっくりと、言葉を紡ぐ。呆れたように。 「あぁ?あー、虹で染め上げるんだろ?何で今更そんなこ」 「虹で?!」 虹?!虹で染め上げるって何?!と叫びながら首に回した腕を強めると、蛙の泣き声みたいな 可哀相な声が男の人の方から聞こえたので、そうっと腕を緩めた。 それにしても、虹!そんなもので、どうやって染め上げるというんだろう。 天国には不思議な染料でもあるのかな、と思いながらゆさゆさと背中の上で足を揺らす。 子供に戻ったみたいだ。お父さんとお母さんに何かをねだる子供に。 今彼にねだるのはオモチャでもお菓子でもなく、知識だけど。 「おま、えっ……本当、ふざけんなよ……!」 「だって、虹!」 女の子たるもの、綺麗なものは基本的に好きなのだ。 あの、虹で染め上げたと言う布はすごくすごく綺麗で、コレは絶対に詳しく聞いておかなくては! と意気込む。どうやって染めるの?と、わくわくしながら、問うた。 ちなみにこの質問について、彼からの返答は一切なく、いきなり真っ白の塔の隣にあった、こちらは 真っ黒の天幕のようなところにぺいっと放り込まれた。 そこにあったのはただの大きな銀色の受け皿のようなもので、正直「何でいきなりこんなとこ連れ込むんだ!」 と身の危険をちょっぴり感じたのだが、まあ、そんなことは全く心配ないようだ。 「これで、染めあげんだよ」 そう、イライラした言葉が、頭上から聞こえた。 ふうむ、と頷いて目の前の銀色の皿のようなものを眺める。 薄い金属か何かで出来ているのかもしれない。爪で突付くとコツンという軽い音がした。 大きさはといえば、直径3mくらい、だと思う。かなり大きく、けれどその割には 深さはあんまり無い。 そーっとその銀盆の中を見つめると、湛えられた水の中―――銀盆の底に変な模様が描かれている。 それは先程の女性が身につけていた白衣に描かれた模様と全く同じものだった。 二重の円の中に、星みたいな変な図柄が描かれていて、その星を無視したように無秩序な 細い線もいっぱい引かれている。 一体何で描いてあるのか、どの線も異なった色で描かれていた。 若草色だったり、桃色だったり、レモン色だったり、あるいは漆黒の闇色であったりもする その線で描かれたその図柄は、私に魔方陣とかいうものを思い出させる。 漫画みたいだ、と思いながらじいっとそれを見つめた。 「……変な模様」 そう、ぽつりと零した瞬間、ばちんと音を起てて口に大きな手で蓋をされた。 あの失礼な、けれど親切で優しい男の人によって。 一応気遣ってくれたのか痛みは無かったが、心臓が止まる程驚いた私は、何するの!と文句の一つでも 言ってやろうとした……が。 彼のあまりに必死な形相に『何かマズイことを言ったのだ!』と瞬時に悟った私は、ぴたりと 口を閉じた。そりゃあもう、貝のように。 むに、と頬を抓られて、けれど真面目な表情で口を開かれては文句は言えない。 どうやら私は言ってはいけないことを口にしてしまったらしいから。 「マッティ、お前、本気でどうした。オイ、神殿でそんなこと口走ったら拷問でもされた挙句に 殺されるぞ」 「ご、拷問!じゃなかったごめんなさいもう二度と言いません」 そう言った後すぐにきゅっと唇を閉じると、大きな溜息を吐かれてしまった。 彼の緑色の瞳が私を映し出す。それを眺めながら、私は「あ、」とあることに気付いた。 「―――名前」 そうだ、名前を聞かなくては!と、いきなり思い立った。 「名前は?!お兄さん!」 私の質問にぎゅっと眉を顰めて、ひどく気分を害したように 「……ガイン」 彼は、その名を厭うように、低い声でただそれだけを口にした。 |