第三話 緑の森が誘う先








「ちょ、も、もっと振動を緩く……!」
ゆらゆらと揺れる暖かな背中の上、私は筋肉痛に悩まされていた。
いったい私は何をしたんだろう、何でこんなにひどい筋肉痛なんだろう。全く理由が分からなかった。
それに、こんなに酷い筋肉痛になったのは初めてで、正直こんなにきついものだとは知らなかった。
振動が痛みに響く、響く。激痛という表現は間違っているけれど、でも相当つらい。
死ぬなよー、という何とも楽しそうな声が下から聞こえた。


非情な言葉に、うう、とうめき声を発しながら、少しでも気を紛らわせようとぐるりと辺りを見渡す。
真っ青の空を全部隠そうとするような意地悪な木々が立ち並ぶ森。けれどそれに失敗して、 緑の葉に乗った朝露を宝石のように輝かせ、暖かで柔らかな木漏れ日を作りだしている。
鈴の鳴るような、小さな可愛らしい小鳥のさえずりが聞こえた。
それにしても肌寒いな、と思いながら背負ってくれている男の人に触れる面積を少しでも 広げて暖を取ろうと、きつく抱き締める。

そんな私の人間の本能が凝縮されたかのような行動に、今まで規則的に歩み続けていた男の人の歩みが ぴたりと止まった。
―――何だ?どうかした?
そう思いながら、何?と目の前のつむじを見つめつつ「どうしたの?」と問い掛けた。


私の問いかけに、男の人は、はあと溜息をひとつ零して、かくりと首を折り俯いた。
そう言えば、まだ彼の名前を聞いていない。
どうして私のこと知ってるんだろうとか、ここはどこなのかとか、たくさん聞きたいことはあるのに 何も聞けないし、今は何も考えたくない気がした。

ああ、それにしてもひどく眠い。ぼんやりとした思考が、様々な疑問を塗りつぶしてゆきそうになる。
このまま眠ってしまったら、何か大事な事を忘れてしまいそうだ。
まさかそんなことは無いだろうとは理解しているけれど、何だか不安になって、 その不安を取り除こうと頭をふるりと小さく振った。
森のひんやりとした空気が眠気を払ってくれて、もう一度前を見やる。


ひゅぅ、と小さな冷たい風が木の葉を揺らして、森に小さな陰をつくる。
「……寒」
身体の心まで冷え切ったような感覚にぶるりと身体が震えた。
それほど気温は低くないし、零れ落ちる木漏れ日は暖かだ。
それなのに、身体は冷え切ってゆく気がする。深い闇へと続く階段を下りてゆくような感覚にぞっとした。

ざわざわと落ち着かない心のせいかもしれない。
ずっと変わらないように見える木々が立ち並ぶ森。それがいきなり暗くなった気がする。
山の天気は変わりやすいっていうけれど、そういうことなんだろうか。
―――大丈夫だよね?ちゃんと、どこかにつけるよね?
森が不安気に揺れる音のせいで私まで不安になって、首に回す腕を強くして、さっきから一歩も進もうとしない男の人の背中の上で足をぶらりと揺らす。
早く進もうよ、の合図だったんだけど、何故かいつまでたっても全く歩き出そうとしない。

不思議に思いながら小首を傾げ、「どうしたの?」と小さな声で尋ねた。
誰かに聞かれているような気がして、本当に小さな声で。囁くように。
私の言葉のすぐ後に、男の人は前を見つめたまま何かをぽつりと呟いた。
けれどそれは木の葉の囁くような葉擦れの音にかき消されてしまう。
聞き取れなかった事に対して小さく眉を顰めたその瞬間、彼の口からものすごく失礼な言葉が 飛び出した。いわく。

「マッティ、お前全っ然胸ねえな」
「うるさいうるさいうるさーい!女の子に対して失礼なことを言うな―――!」

私の当然な怒りの言葉に、男の人は再び口を開こうとしたが、絶対に今度も失礼な言葉に違いない。
それ以上何も口にするんじゃない!と足を大きく揺らし続けると、彼は大きな笑い声を上げながら、再び進み 始めたのであった。緑の木々のアーチが誘う先へと向かって。
















「……街?いや、村……?」

森を抜けた場所にあったのは、木造の家が立ち並ぶ集落だった。
建築されて何年くらい経ってるんだろう。地震とか大丈夫なのかな、と思えるような古さの家も あるけれど、家って人が住んでいると腐敗しにくいっていうし大丈夫なのかもしれない。
しかしながら、明らかに築数十年は経過しているであろう家が立ち並んでいて、私は思わず感嘆の息を吐いた。
すごい、中はどうなってるんだろう。

森に囲まれた農村というか。すごく平和そうなところだな、と飛空する鳥を見上げる。
いかにもお母さんって感じのおばさんとか子供の声とか、全部ほっとする温かさを持っていて、 なんだか温かいお湯につかっているような感覚がする。
けれど、ずーっと向こうに目を凝らすと、周りの建物とはずいぶん違った様式の建物が ひっそりと聳(そび)え立つように存在していて、それが私の目にはひどく奇異なものに映った。
どうやら乳白色の石で造られているらしく、陽光を反射して所々が虹色に輝いている。
それは周りの暖かそうな建物とは異なり、何故かひどく冷ややかな印象を受けた。


「とりあえずは、司祭のとこだな」
そう言ってずかずかと歩を進める男の人の背の上で、私は「っていうか、ここ、日本……?」 と、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
天国に日本も何も無いかもしれないけど、でも私は疑問に思ったのだ。
たしかに、そこここで働いていたり世間話でもしていたりする人達の顔つきは日本人のものだし、 髪の色だって黒か、日に焼けたような茶色の髪の人もいる。
けれど、瞳の色だけがやけにカラフルだった。
黒に始まり、茶、青、緑―――くらいなら私にだって理解できる。でも、これは何だ?
血のような朱に、太陽の橙、レモンみたいな黄色。菫に桜の色まである。
そんな、漫画じゃあるまいし、と引き攣った笑みが浮かんだ。

天国はファンタジーな世界なのかもしれないな、と無理やり納得しようとした瞬間、 いきなり陰ったと思い、空を見上げると大きな灰色の雲が太陽を覆っている。
多分さっきまであんな辺鄙な森の中にいたからだと思うけど、空に浮かぶ雲でさえも何故か 何かいけないものを呼んでしまうような気がして不安になった。
どうしてだろう。あの大きな木の傍に居た時は何も不安に思うことはなく、心は静かに落ち着いていたのに――― あの木から離れてゆくほど、心がザワザワと落ち着かなくなってゆく。
誰かに、何かに監視されているようでひどく息が詰まった。


人とすれ違うたびに『マッティ、一晩もどこに行っていたの?』とか『女の子が1人で森の奥に入るなんて 危ないから、もう絶対にするんじゃないぞ』とか言われるもんだから、日本人お得意の愛想笑いで誤魔化そうと すると、何故か皆一様に目を見開いたりしていた。
む。わざわざ笑顔を作ってやったのに、その驚いた顔は何だ!と少し不満に思いながらも、天国では 簡単に微笑んだりしてはいけないという決まりごとでもあるのかもしれない、と思い直して、暖かな 背に顔をうずめる。

身体が疲労を訴えて、睡眠を要求しているのがよく分かる。
こんなに疲れたの、マラソン大会以来だよ……と過去の思い出に浸りながら、ぼんやりと辺りを 見回した。
ここで、私は第二の人生を歩むのか、なんて思いながら。


……心配する必要は無さそうだな。どこをどう見ても、すごく平凡な村だし。
そりゃあ、私が今まで生活していた場所に比べると非凡である事は確かだけど。
一瞬頭を過ぎった『私、もしかしたら異世界に来たのかもしれない』という不安を拭い去るために、 ぶんぶんと頭を横に振る。
―――だって、普通、異世界なんかに来る時は何かしらの使命があって、神官様とか騎士様とか王子様とかはたまた 王様とかに気に入られて、たまに切ない展開に陥りつつも最終的には素敵な幸せな生活を迎えるものじゃないか。
うん、そうだよ。私は本当に何も出来ないし!せめて顔が可愛いとかいうなら王子様に見初められることも あるだろうけれど、それも無理だし。っていうか、王子様と恋愛とかそんな面倒な事絶対に嫌だし。

だから、異世界に来たなんて―――そんなことあるはずが無い。


少し落ち着いて、安堵の溜息を吐く。
感じるのは焼きたてのパンの匂いとか、―――あ、あのピンクの花が道端に点々と咲いている。深く甘い香りが鼻腔に広がった。
その頭を溶かすような甘い香りに、くらりと眩暈がする。
体に力が入らなくなって、ぐったりと男の人の背に寄りかかると、どうした?という問いかけが返ってきた。
けれど今の私に、その言葉を理解する事はできない。
ぐらぐらする視界で、ただ一つ、あの毒々しい程鮮やかなピンクの花だけが甘く 色づいていた事だけが脳裏に焼き付けられた。