「がい……ガイン?」 確認するように、ゆっくりと舌の上でその名の響きを転がす。 ガイン、ともう一度口にして、こっくりと頷いた。 ―――“マッティ”に“ガイン”。天国はカタカナの名前の人ばっかりなんだ。 訝しげにじっとこちらを見つめてくるガインを見つめ返すと、すごく微妙な表情をしていた。 ちょっと傷ついたような、でも、ちょっと嬉しそうでもある、そんな表情だ。 なんとなく、丸みのある柔らかな響きが気に入って、空気に溶かすようにちいさく呟く。 「ガイン、」 ふと微笑んでそう呼ぶと、何故か彼は少し表情を曇らせて、真っ直ぐに目を合わせてきた。 深い緑の、綺麗に陽光を反射するビー玉みたいな瞳だ。 「……何だよ。なぁ、マッティ?お前本当にどうしたんだよ。俺の名前なんて知ってるだろ? なのにどうして……今更そんなこと聞くんだ?」 真剣な瞳。真摯な態度。言外に含まれるのは、『いい加減にふざけるのはやめろ』という 柔らかな叱責だ。 けれど、その合間からちらりと見え隠れする不安を隠す事はできないらしい。 ふと、真っ直ぐの瞳が揺れた。 ―――だから、知らないんだってば。 何度言っても聞き入れようとしない彼の態度にむっとする。 けれどつい口から出そうになる言葉を引っ込めてしまうほど、ガインは不安げに、それでも しっかりと私と目を合わせた。 こんなときでなければ、―――もしこれが”私”に向けられた視線だとすれば、恋でもしてしまうんじゃないのかというほど熱っぽくて切なくて甘い視線だった。 それは母に縋る子供のような不安げなものでもあったし、やっぱり愛する人に向けるものでもある。 ゆっくりと、息を吐いた。 天幕の外にはそれほど賑やかでもないけれど、とりあえず人の居る気配は感じられる。 けれど、この中は下界から切り離されたように静かだ。 何故か濃厚な水の匂いがする薄闇。ほのかな灯りが天幕の布の間から漏れている。 何か言わなくちゃ。そう思って口を開いたが、何を言えばいいのかなんて全然思いつかない。 きゅっと再び口を閉じて俯くと、視界の隅でガインの肩がぴくりと不安げに揺れるのが見えた。 申し訳ないという思いと、でも私はガインの知ってるマッティとかいう女の子じゃないんだから仕方 無い!っていうか、好きな子の面構えくらい覚えとけよ!という少しの不満が生まれる。 ガインは不安気に揺れる瞳を私に向け、そして私は少しばかり苛立ちを滲ませてガインを見つめる。 そんな二人の間の微妙な沈黙を破ったのは、若い女性の声だった。 「……誰かいるの?」 つい、と細く白い指先で漆黒の布が横に引かれて、天幕の中に甘いお香の匂いと緑の匂いが 広がる。同時に差し込んでくるのは眩しい太陽の光。 一瞬うっと目を瞑って、下を向く。突然の光に目が驚いてしまった。 刹那、あら?という、不思議そうな声がかかる。 よく言えば艶やかで、甘い、大輪の花のような声。でも正直言って、私にはあまり心地良い声だとは思えなかった。 甘い声、と言ってもそれは確実に毒を含むどろりとした甘さだし、艶やかだけど、媚を売っているような 感じがする。 私が女だからだろうか。この人とはあまり仲良くなれそうにないなという気がした。 目が光に慣れるまでにそんなことを考えて、私が声だけで『うっわ、仲良くなれそうにないな』と 感じた女性にゆっくりと視線を向ける。 そこには想像していたイメージとは全く違う女性が、驚きを隠せないというような表情で、呆然と突っ立っていた。 「……マッティ?」 確かめるように名を呼んだのは、朱く塗られた唇だ。それがそうっと控えめに開かれる瞬間は まるで小さな薔薇が花開く瞬間かと思えるほど美しい。 ぱちりと大きな瞳を見開いて、口も小さく開いている、その驚きの表情でさえも、やっぱり美しかった。 流れる髪は蜂蜜色で、真っ直ぐ背に流してあるそれは光を含んで柔らかく輝く。 髪と同じ蜂蜜色の睫毛で縁取られた瞳は暖かな蜜柑色だ。 華奢な体のせいか、とにかくお人形さんみたいに綺麗な人だった。 さっきの女性と同じような服装で、けれど多分、今目の前でビックリしている彼女のものの方が 高価だと思う。 あの綺麗な虹色の糸で、うっとりするほど綺麗な細かい刺繍がしてあって、下手したら下品に なってしまいそうなそれを清楚に着こなしていた。 陽光を背にしたそのしなやかな立ち姿は、まるで、背中に光の羽を背負っているようように見える。 ―――天使さんだ。 「ほ、本物……!」 本物の、天使!天使、天使、天使!やっぱりここは天国だった! 私がそう呟いた瞬間、目の前の天使は「マッティ!」と声を上げながら、私に駆け寄ってきた。 ひどく甘いお香の香りを香らせて。 飴色の小さな丸椅子に腰掛けて、妙にくせのあるミルクティーをずずっと啜った。 何だか色んな視線にさらされているような気がするが、無視だ。無視。 そう思いながらも、開いた扉からチラチラと視線を向けていく不思議な装束を着た女性達にちらりと目をやると、 あからさまにさっと視線を逸らされて、正直ものすごく不快である。 でも、「何見てるんですかこの野郎」なんて初対面の人に言えるはずも無く、無言でカップの 中身をすすった。 このカップというのがまた、こう……木の温もりで溢れている。 木を適当に四角に切って、その真ん中をくり抜いたようなカップだった。 天国は少し文明が遅れているのかもしれない。いやだがそれは仕方ないのか?文明の発達と 共に自然破壊がなされるわけだし、そんなの神様のお膝元である天国で起こっていいはずがないもんな。 でも、文明の利器の便利さに慣れきってしまった人間にこんな生活してて、不満は持たないものか? などと考えていると、慌てた形相のおじさんが一人、息を切らせて部屋の中に入って来た。 そのおじさんはロマンスグレーという単語のよく似合う、紳士然としたおじさんだ。 灰色の髪をきちんと整えてあって、口元のお髭もかなり似合っている。 目尻のシワがやっぱり年齢を窺わせるが、それでも素敵なものは素敵。 是非私のお父さんにもこんな風にお年を召していただきたいものだ、と一つ頷いて思った。 「マッティ……生きて……?」 呆然とそう呟くおじさん。 何だ、私、死んだと思われてたのか、……って、え? 「私、死んだからここにいるんでしょ?」 そう私が口にした瞬間、ガインも清楚系お嬢さんも今部屋に入って来たおじさんも訝しげにこちらを見つめてきた。 ―――どういうこと? 真実なんて聞かなきゃよかった、なんて思うのはやけに真面目な顔をした3人の話を聞いた後。 泣きそうになりながら、―――というか泣きながら、嫌だ!と泣き喚く私が、またまた やけに個性的な少年に出会うことになるのだが、それはもう少し先の話なのであった。 |