第二話 森で出会うもの









木漏れ日も青い空もキラキラ光る朝露も、幸せの象徴のように綺麗だ。
でもどうして死んだはずの私がこんな不幸に巻き込まれてるんだろう。私は自分の薄幸ぶりを心底呪った。

足に傷がつくのにも構わずに、ただ疾走する。
人間、生命の危機を感じるといつもの何倍も早く走れるんだな、なんて悠長に思った。
石に躓いて転びそうになったけれど、ぐっと体勢を立て直して地面を踏みしめる。生い茂った草が 邪魔をして、何度も何度も転びそうになるが、毎回何とか転ぶ事だけは免れることができた。
それは私の素晴らしき生命欲によるものだとは思うのだが、すでに限界を迎えた足や腕、全身が 悲鳴をあげている。筋細胞を全滅させるつもりか!と。

私の命がけのレースを見守っているのは、ただ、揺れる木の葉と時々見かける小鳥達だけだ。
人っ子一人居ない森の中、私は混乱のあまり声を上げた。
「ちょっともう何ー!何でー!」
私、死んだんじゃなかっただろうか?
初めて見る薄い青毛の狼みたいな何かに追われて、私はそう不思議に思った。






あの大きな木のそばから離れて約10分。
私は、不思議な獣に遭遇した。
薄い青色の毛がふさふさした狼のような動物。瞳は真っ青で、とても深い色をしていた。
空と海と、青い宝石を一緒に煮詰めたみたいな色だ。
なんというか、とても知的な瞳をしている。そして何故か尻尾が2本。手足が妙に長い。
私は呆然とその獣を見つめた。
だって、青い毛の動物なんて初めて見たのだ。
「…………」
そうして見詰め合う事1分。
何故か―――多分食料調達のためにだとは思うけれど――そいつは唸り声を上げて、私に突進してきたわけである。


朝の光の中の爽やかなマラソンは素敵だと思うのだ。
健康に良さそうだし、何ていったって1日中いい気分でいられそうだし。
でも、全力疾走は単なる疲労を蓄積することに他ならない!と、思う。

行けども行けども視界に広がるのは、木々ばかりだ。申し訳程度に咲いた花がなければ、 確実に迷っている気が―――いや、もうすでに迷っているんだった。
とにかく、なるべく麓の方へ向かっているんだから、いつかは人里に着けるはずだ。
目前に迫った岩を跳び箱を跳び越える要領でジャンプして、『まあ、生きていればの話だけれど』と 心の中で呟いた。

「も、もう、死ぬ……!」
5分ほどの全力疾走は死ぬほどつらい。 体力測定の長距離走とは全く違うつらさだ。
1kmを3、4分かけて走るのだって限界を感じるのに、今は全力疾走。
ペースなんて考えられない。
むしろそんなことしてたら死ぬ!絶対死ぬ!確実に食い殺される!
まあ、私はすでに死んでいるので、もう一回死ぬっていうのもおかしいかもしれないけど。
でも、精神的にもう一度くらい死ねそうだと思った。


不運にも、足が不安定な石の上に落ちた。足首を軽く捻ったらしく、激痛が走る。
そのせいでふらりとよろけて、体勢を崩してしまった。
ちょっと休めばすぐに治りそうな痛みだったけれど、 それに関係なく、体力的・精神的に立て直す力はもう無い。
そのまま、ぬかるんだ地面に顔面から突っ込んでしまった。乙女として失格である。
泥が全身に付着したけれど、そんなことに構っていられない。
ただ、逃げなくては殺されるといった思いだけに頭が支配された。

疲労を訴え、休息を要求する腕にぐっと力を入れて身を起こした瞬間、ちらりと青い何かが視界に入ってきた。
真っ青の、空よりも海よりも青い、何か。
「ひ」
そう、青い毛の獣がぐわっと襲い掛かってきたのだ。
それに対して私ができることと言えば、ただ
「ぎゃ―――!」
と悲鳴をあげることだけだった。










「おい、そんなに泣くなよ」
「う、くー……」
息を吸おうとすると、ひぅ、と変な声が出た。
私の目の前にいる男の人は、ゆっくりと頭を撫でてくれているのだが、その優しさと さっきまでの恐怖が合わさって、涙が止まることなく溢れてくる。

「ルシルはお前の事探してたんだぞ?」
ルシルとは、どうやらこの青い毛の獣の名前らしい。
そして、ルシルは私の言葉で言うところの警察犬のようなものなのだと、思う。
私を追いかけた理由は、探していた私が逃げ出したからなのだと、目の前の男の人は呆れた様に 言っていた。


「だって、い、いきなり突っ込んできたもん」
「遊んで欲しかったんだろ」
男の人は今度はルシルを撫でてそう言った。
警察犬のくせに保護されるべき女の子を襲うなんて!遊んで欲しかったなんて理由で許されるものか!と拳を握る。
そう思いながら、ルシルをじいっと見つめる。
ぱたぱたと動く尻尾。可愛い。でも、知的な青い目。かっこいい。
ルシルは、私の知っている犬とは全く違う、犬……のような動物だった。


「あーあ、服、こんなに汚して……何やってんだ。しっかもこんなに傷だらけ……馬鹿か、お前」
呆れた、と言わんばかりの対応に腹が立つ。
噛み付いてやろうか、この男。もうちょっとレディに対する対応を考えるべきだ。
そう思いつつ、馬鹿じゃない、と呟く。
だったら子供だなと、そう言った男の人は、ひどく不思議そうな嬉しそうな楽しそうな、不思議な表情をしていた。

「大体な、マッティは少し落ち着きが無さ過ぎるんだよ。お前ももうそろそろ16だろ、 リィは何も言わないのか?」
「……は?」
マッティ?16?リィ?
私の記憶に無い言葉だ。どうやら人名のような気がするが、生憎カタカナの 名前で記憶にある人物といえば、歴史上の人物か外国の映画俳優か英会話の先生だけだ。
「何?それ」
私の尤もな問いに、男の人は何言ってるんだ、とばかりに眉を顰める。
む、失礼な人。大体、初対面の女の子に向かって暴言吐きすぎだ。
そう思いながら、むう、と眉根を寄せると、ぺたりと額に手を当てられた。

「……熱はないみたいだな」
「……なかったら死ぬと思う」
何だか混乱した頭で、とりあえず突っ込んでみると、ばしりと叩かれた。
「な、な……!」
初対面の女の子の頭を叩くってどうゆう了見だこの男!
はくはくと、意味の無い口の開け閉めをくりかえして何か言葉を紡ごうとするが、 どうしても言葉が見つからない。
そうしている間にも、男の人がゆっくりと、ためらうように口を開いた。

「……なあ、マッティ、お前一晩もどこに居たんだ?村人総出で探してたんだぞ、お前の事」
ふと、真顔になった男の人を見つめて、だからマッティって誰、と首を捻る。
よくよく見ると、目の前の彼はなかなかの美青年だ。
赤っぽい茶色の髪と、深い緑の瞳。外人っぽい顔立ちだな、と思った。
目の下にちょっと隈ができているので、寝不足なのかもしれない。
ちゃんと寝なよ、と心の中で呟いたところで「おい」と再び声を掛けられる。


ほら、と渡されたゴツゴツした生地のセーターを羽織ろうとすると、まずそれを 脱げ、と泥で汚れた服を指差された。
何で見知らぬ人の目の前で?!と驚いて目の前の男の人を見やる。
何だ?と訝しげな表情をされた。
「いや、えっと、……ここで?」
だんだん落ち着いてきて、理性と言うか羞恥心というかそんなものを取り戻した私は、 はっきり『女の子の着替えを覗くつもりかこの変態』という事が出来ない。
しかも男の人は「他にどこで着替えんだよ」と眉を顰めた。

いやいや、できるわけないだろう、初対面の男の前で生着替えなんて。
そう思いつつ、あのう、と男の人を見上げた。
「……マッティ、って誰?」
「お前だろ。ぼけるにはまだ早いぞ、小娘」
呆れた顔をする男の人を見つめながら、小首を傾げて口を開く。

「私、マッティって名前じゃない。」
はっきりと言葉にした、私の真実。目を見て伝えた、私の真実だ。
けれど、男の人は眉を顰めた。
「……何を思ってそんなこと言ってんのか分からねーけど、お前はマッティだろ。あんまり心配掛けさせ るなよ」
男の人はそう言って、泥の付いた私の頬を、そっと拭う。
彼の私を見つめる瞳は優しかったけれど、それが自分に向けられたものではなくてマッティという子に向けられたものだと分かっていたから、何だか少し、ほんの少しだけだけれど、寂しかった。