第四話 闇色の空の音色








ポーン、と高く響く音。

息を切らせて祭の様子がよく分かる場所まで走る。
大きな木―――ご神木だ―――の前に作られた杉の台。 その台の上に置かれているのは榊にお神酒。小麦に猪肉、綺麗な反物。
その前には神主と巫女が座っていた。
楽人は左右の本方・末方の座に分かれ、歌い奏し、主要部分では舞を伴う。
笛・太鼓・小太鼓・銅拍子などの鳴り物に合わせ、仮面をつけて無言で舞うその舞。
それはたいそう美しい舞なのだと聞いている。
流麗な笛の音に合わせて、まるで天女のように軽やかに優美な舞はこの世のものではないような程美しいのだと。



静かな夜空の下、奏でられる音。
気分が悪くなるほどの静けさの中、耳に聞こえるのはかすかな音色だけ。
風も少なく、動物の声もあまり聞こえない。
ひどく不思議な感じがした。まるで、世界から隔離されたようだ。
けれどそれは今のこの状態のせいだ、と思うことにした。
いつもと違う夜の森、儀式の時の緊張感、秘密の散歩。
それらが、そう思わせているだけだと。


ほう、と聴こえる調べに酔いしれる。
きれい、と呟いた時、何故か泣き叫んでいる女の声が聞こえた。狂ったような高い声だった。
うーん?と小さく首をかしげ、その声の聞こえる方向を見つめて、ぽつりと零す。
『リィ、あの女の人ってヒナお姉さんのお母さんだよね?』
『多分……何かあったのかな』
『静かにしなきゃ駄目なのにー』
何かを思案しているようなリィの隣で、むーっと眉を顰めた。

どうして誰も注意しないんだろう。
儀式の時は静かにしなくちゃ駄目だと、そう教えてもらったのに。
サワサワと辺りに広がる草が揺れる。風に乗って、楽人の歌声が聞こえた。
『リィ、この歌お昼に歌ったのと違うね』
『うん…』
『まだ、舞わないのかなあ』

ドォンと一際大きな太鼓の音が鳴ったのは、そう呟いた瞬間だった。
その音から一拍を空けて鳴るのは鈴の高い音。
それを合図に装束を纏った巫女が舞い始めた。




流れる笛の音、空気を震わす太鼓。軽やかな鈴。全ての音が夜の空に溶けてゆく。
舞が終わる頃には、ただ風が草木を揺らす音しか聞こえなかった。
すべてを飲み込む静寂に包まれた幼い自分にできることは、ただただ隣に立っているリィの手を強く握る事だけだった。
綺麗だった。綺麗だったけれど、何故かとても怖かった。震えが止まらない。
泣きそうになりながら、早く帰ろう、との意味を込めて手を小さく引いた。
けれど何故か手を握り返してくれない彼を不安に思って、一層強く手を握る。
リィ、と名を呼びたいのに声が出ない。
張り詰めた、決して穢してはならない空気。それが体の自由を奪う。
この神聖な空気を冒してしまうのはいけないことだと、ただその思いが頭を巡った。


その空気を破ったのは高い女の声だった。
掠れた声は聞き取りにくく、途切れ途切れにしか言葉が聞こえない。
その言葉さえもひどく恐ろしいもののような気がして、繋いでいない方の手で耳を塞いだ。
目尻にうっすらと涙が滲む。自分の体から熱が失われるような感覚に怯えた。
そんな様子にも気付くことなく、じっと儀式を見つめ続けるていたリィが何かに気付いたように、はっと目を見開く。

『帰るぞ!』
『リィ、あ、』
『我等が天に坐す神よ。』

足が動かない、そう言おうとしたけれど、それを遮ったのは若い女の声―――巫女のものだった。
いつもとは少し違った、甘さを含まない声。それが静寂の中、おかしな程に響く。
紅く塗られた唇から紡がれていく言葉は、最早ただの音としてしか入ってこなかった。
リィの自分を呼ぶ声も、狂ったような叫び声も、夜空に響く祈祷の言葉も。
心臓が早鐘を打つ。聞いてはいけない、そう思うのに足が動かない。
そうしている間にも滞りなく儀式は続いていく。
―――今から起こることは、きっとひどく恐ろしいことだ。
ガンガンと痛む頭で、ただ、これだけはぼんやりと理解していた。



言葉が止んだ。
それを合図に、ずるりと2人の男が白い何かを引きずってきた。若い娘である。
娘は眠っているのか動けないのか定かではないが、ぴくりとも動かない。
よく目を凝らして見ると、長い黒髪が見えた。艶やかな髪。
それはヒナと呼ばれる少女のものだった。

「リィ、ヒナお姉さん、だ」
呆然とそれを見つめて呟く。どうして、とリィが零した。
どうして彼女なのか、と。信じられない、という意味を含んで。
あれほど艶やかな黒髪は彼女のものでしかありえない。
いつもは邪魔だからといって、くるりと1つに纏められた髪は見事な漆黒の流れをつくっている。

闇を包括する静けさ。冷ややかな空気。

こくりと小さく喉がなった。
恐怖を根本とした奇妙な興奮が体を包む。
白い衣に漆黒の髪。その対比がひどく美しいと思った。
男たちは丁度神木の前で歩みを止めた。それをちらりと視界に入れて、巫女は赤い唇を開く。
『神よ、天におわします我等が神よ。今我等が願いを聞き届けたまえ。』
静寂が一層深くなったっような錯覚。
長い祈祷の言葉がどんどん紡がれてゆく。
靄がかかったような頭では、それらを理解することは困難だった。
永遠とも思えるような―――実際は数分だっただろうけれど――言葉がほぼ、紡がれた。

『今、この地より御身が元に壱つの魂が帰り、永久に尽くすであろうことを』

その瞬間だった。
不思議な音がして、何かが赤い軌跡を描いてどさりと地に落ちた。
『っひ』
リィの引き攣った声が聞こえた。
鉄の―――血の匂いが風に乗って運ばれてくる。
一層高い悲鳴が上がった。ヒナ、と名を呼ぶ声も。



そこから先はあまり記憶に無い。
ただ、リィに手を引かれて、どこかに駆けた。きっと、みんなが眠っている部屋だ。
その時は何も考えられず、ただ、やけに疲れた体と頭で眠りについたのだ。
リィの嗚咽を聞きながら。