第三話 夜空と過去と。







空がほんのりと朱を含んだ闇色に染まって、その空に浮かぶのは細い細い三日月。
闇を消すように、けれど闇と調和して煌く星々が空に広がる。
雲ひとつない夜の空は、まだ幼い少女の冒険心をくすぐった。
『リィ!ね、行こうよ!』
『でも、夜は大人だけのお祭だって言ってただろ』
『いいでしょ!ねーってばぁ!』
リィと呼ばれた少年は、はぁと一つ溜息をついて、読みかけの本を閉じた。

闇に溶ける黒髪と闇色の瞳。特別整った容姿ではないが、彼はひどく人目を引いた。
その、手に持つ本が理由で。
この世界では識字率はきわめて低く、文盲が多い。
識字は貴族か学者か、限られた者だけの能力なのである。
そして、ここのような小さな村には、読み書きの出来る者は片手で足りるほどしか居ない。
それにも関わらず10歳ほどの少年が、薄くはあるが”本”を持っているのはひどく奇妙な光景のように映る。
昔学者を目指していた彼の父が、何となく息子に文字を教えてみたら、いつの間にか覚えていたというだけなのだが。

『今読書中。』
そう、ぽつりとそう零したリィ曰く、文字を覚えて本を読むのは楽しいらしいけれど、そうは思えない。
本なんて読むより、外で遊ぶ方がずっとずっと楽しいのに。
そう言って遊びに誘ってもなかなか外に出ようとしない。
不思議に思って、一度だけ聞いたことがある。リィはどうして文字を覚えたいの、と。
その理由は『外に出たいから』だった。
外はとすなわち村の外。大きくなったら村を出て、他の国へ行ってみたいのだと。
ずっとここで一緒にいられるのだと思っていた自分にとって、それはひどく衝撃的な答えだった。
それを聞いて、自分も文字を勉強することにしたのだ。
ただ、リィの傍にいたいという理由で。


『ねーえー!リーィー!』
行こうよぉ、と言いながら軽く袖を引く。
両親も祖父も、村の大人はみんな中央の広場に行ってしまった。
村中の子供たちはみんな一つの建物に集まって一晩を過ごす。
稀にあるこの"祭"は少女にとってひどく楽しみなものだった。
下は0歳から上は12歳までの子供たち。その50人弱の子供が大きな部屋で一塊になって眠る。
あんまりはしゃぎ過ぎるとお姉さんやお兄さんに叱られてしまうからなるべく声を抑えて、友達とおしゃべりをする。
それがとても楽しみだったけれど、今回は絶対に広場に行きたかったのだ。
だって、巫女様は言ったのだ。今回の宵祭で神楽舞を舞うのだと。
大好きな大好きな巫女様。
いつも綺麗な衣装を身に付けて、柔和な笑みを浮かべた美しい人。
彼女が舞う舞が見たい。祭事のときだけしか見ることのできないその舞を。このとき少女は、そう思ったのだ。






サァっと風が吹いた。夜の風は少しひんやりとして、肌寒い。
お気に入りの薄い桃色の上着を着込んで、月の灯りだけを頼りに進む。
道を三日月のほのかな灯りが照らしていた。
道に咲いた月の光を照らす白い花。それを1本摘んで、髪に飾る。
繋いだ手の暖かさを感じながら、ふくく、と笑みがもれた。
―――何だかんだ言ってもリィは自分に付き合ってくれるのだ。
他の子とはあまり会話をしようとしない彼が、自分だけに優しくしてくれるのはひどく優越感を感じることで、繋いだ手にきゅっと力を込めた。

『リィ!早く!』
『ばか!静かにしないと見つかるぞ!』
リィの方がうるさいもん、そう思って唇を尖らせる。
声に出してしまえばきっと彼は帰ってしまうだろうから、心の中で呟いただけだったけれど。

むう、と小さく眉を顰めながら歩いていると、くい、と手を引かれた。
『あっちじゃないか?』
指された方向に目線を向けると、松明のぼんやりとした明かりが見えた。
あ!ほんとだ!と肩までの髪をふわりと揺らして明かりが見える方へ駆ける。
一人ではきっと恐かったであろう道のりも、二人ならば恐くはない。
ブツブツと文句をいいながらも一緒に来てくれる少年の手を引いて進んでいると、ふと耳に音が届いた。
風に乗って聴こえるのは高い音程の音。すぐにもう祭は始まっているのだと分かった。
『もう始まってるみた…って、引っ張るな!』
『早く早く!』
早く見たい、その思いが強くなる。強く握った手を引いて、灯りの方へ駆けた。





このときに自分がとった行動を、私はこれから先ずっと後悔することになる。
何故大人だけの祭なのか、子供は来てはいけないのか、私はそれらをまったく理解していなかったのだ。
ただ”祭”の言葉に浮かれて、大人の仲間入りができるかもしれないという幼稚な考えに溺れて、 私は犯してはいけない罪を犯した。

二度と戻れない私の幸福な時間は、この日で終わりを告げたのだ。


何も知らないままでいたかった。けれど私は何かを知ってしまった。
世界は美しいものなのだと信じていたかった。けれど世界は美しくなどなかった。
報われぬ望みなどないのだと思っていたかった。けれど望みなど叶わないのだと思った。

あの遠い日に、私は何かを得て、そして何かを失ったのだ。
何か、大切なものを。