第二話 空の果ての森で





――――いやだいやだいやだ!死にたくない!


涙を流して少女は駆けた。
汗と雨で服はぐちゃぐちゃになっている。
長いスカートがひどく邪魔で、何度も転びそうになった。
連日続く雨の所為で地面はぬかるんでいて、走っている間に幾箇所にも泥が飛ぶ。
きっとこの服は二度と着れないだろう。けれどそんなことに構ってはいられなかった。
早く逃げなくては、捕まってしまう。殺されてしまうのだ。
身体の全てが心臓になったようにドクドクとうるさい。体が熱くて重くて、息が酷く苦しい。
それでも、ただ走るしかなかった。


木の葉が小さく揺れる。
久しぶりに太陽の光を浴びた喜びを歌うように、さわさわと。

十数日間もの間続いた曇天と雨。
国中の全ての村や街がこんな天候に見舞われたのだと、そう言ったのはつい数日前に村へと訪れた国からの使者だった。
国付きの巫女が神殿に篭って祈りを捧げ、いくつかの祭事が執り行われたらしい。
村でも巫女が一日中祈り続け、天候神を祀るのだと新しい祠を建てたのだ。
様々な村や街で作物を捧げ、家畜を捧げ、それでも止まない雨のために捧げた贄はどれほどの数に上るだろうか。
公に、あるいは内密に行われた贄を捧げるという儀式。
そのおかげで雨はやんだのだと、そう言われてしまっては誰も、聖職者であっても咎めることはできなかった。
国のため、国民のためという名目で、禁忌であるはずの行為が何度も行われているというのに。









「いたぞ!殺せ!」
背後から聞こえたのは、怒りを滲ませた男の声。

ひくりと喉が鳴る。
―――見つかったのだ。
もっと速く走りたいのに脚が疲労を訴える。
けれど本能が、立ち止まる事は死と同義だと告げていた。 だから、決して止まるわけにはいかないのだ。
ひらりとスカートを翻して、岩を飛び越える。ピ、と裾が引っかかって破れた。長く編んだ髪が緑の匂いのする風に靡く。

少女にとって、幼い頃から遊んできたこの森は広い庭のようなものだった。
1番甘い野苺がなる場所。月が1番綺麗に見える丘。どこが安全でどこが危険か。
それらの全てを理解していたはずだったのだ。

う、と嗚咽が漏れる。
どうして早く帰らなかったんだろう。
雨が上がったのが嬉しくて、つい森の深くまで入ってしまった。
雨の後の虹が綺麗に見える高台。月も星も村も、全てが見渡せるあの場所へ行こう。
少しだけ回り道をして、それから向かおうと思った。
春の桜も、夏の雲も、秋の紅葉も、冬の白に染まった村も全てが見渡せるあの場所へ。



なのに、今の自分の状況はいったい何だというのだろう。
「助けて、」
震えて掠れた、声にならないような言葉。
それは誰に祈るわけでもなく呟かれた言葉だった。
決して神に祈ったわけではない。少女は神などいないのだと思っていたから。
皆が信じている『天に坐する我等が神』は少女にとっての神ではなく、他人にとっての神に他ならない。
『神は慈愛の存在。信じていれば神は必ず救ってくださいます』
そう、微笑みながら教えてくれた巫女様を疑うわけではない。
けれど、それならば何故地震や飢饉や戦が起こる。
何故それを止める代償に贄を求めるというのだ。

それが理解できなくて、だから神はいないのだと思うことにした。
祈っても叶わないのなら、最初から期待などしない方が遥かに楽だったからだ。
勿論、神を信じる事も神に祈る事も自由だ。
それ自体は咎められないし、咎めるつもりもない。
ただ、贄を捧げるその行為だけは決して許せなかった。

多くの人はその行為を禁忌と知って、けれど祭と呼ぶ。
幼い頃、"祭"という言葉に心を躍らせて広場に向かったことを今でも鮮明に覚えている。
幼馴染の無愛想な、けれど優しい少年の手を引いて、松明の焚かれた場所へ駆けたことを。


たしか10年程前のあの年、村を酷い旱魃が襲ったのだ。川が干上がって作物の収穫に影響が出た。
収穫期をとうに過ぎたというのに実が全くといっていいほど太らない。
だから人々は神に祈ったのだ。どうか雨を、と。

子供心に雨が降らないという事は大変な事のだと理解していて、昼に両親と向かった神殿では一生懸命に祈った。
神殿の中の空気はひんやりと冷たくて、荘厳で少し怖かったけれど、 強く握った父と母の手が優しくて温かくてとても安心したことを覚えている。


大広間の高い天井には色とりどりの曇り硝子がはめ込まれていて、降り注ぐ陽光が様々な色に変わる。
その光を浴びながら歌う巫女様がひどく美しく、華奢で、けれど冒しがたい存在のように見えた。
村全体に高く響いた鐘の音。それを合図に神殿が揺れた、そう表現できるほどの歌声だった。
大勢の人の声が合わさった歌は、低く深く神殿に、そして村全体に響く。
綺麗で、けれどひどく怖い歌。
ただただ神への祈りを乗せて歌った歌だった。
その想いが強すぎて、本能的な畏怖を感じた。神の存在と、それを信じる人々に。

それは、今も変わらぬ感情。神への、畏怖。