「……レイファー」 「裏切るつもりか、ガイン」 ガインが苦い響きでその名を呼んだが、呼ばれた彼はやっぱり平坦な声で一言だけを口にした。 「その娘だろう。渡せ」 その言葉にぎょっとしたのは何を隠そう私で、対してリィは更に強い力で私を抱き締める。苦しい。 ガインと対峙するその男の人はどうやら剣を抜いたようで、すらりと鈍く響く音が早朝の森の空気に溶けた。 何が起こっているのかよく理解できないが、漂う緊張感には思わず体が震えてしまう。ついでに寒い。 「ガイン」 その声に、ガインは「できると思うか」と言葉を返した。 「俺は、それだけはできないと、言ったはずだ」 噛み締めるような低い声が聞こえ、リィは私に回していた腕をゆっくりとと外す。 不思議に思いながら、ふっと視線を上げると、リィはそっと私の耳元に唇を寄せた。 「マッティ、走れるね?」 え?と呟く。それと同時に「行け!」とガインの声が静かだった森に響き、リィは私の手を握って素早く立ち上がった。 レイファーと呼ばれた美声な男の人が動くより、リィと私が駆け出すほうが早い。 私は「ちょ、待っ」なんて間抜けすぎる声を上げつつ、リィに手を引かれるままに駆け出した。 凹凸の激しい山道は、けれどマッティの体ではそれほど苦にならない。 私の体なら間違いなく滑って転んでっすってんころりん、そして「ギャー!」なんてことになっていたと思うが、マッティの体はこういう道に慣れているのか、普通の道と大差なく走ることができた。 後方ではガインと美声の男の人が言い争い―――というほど甘くはなく、本気で命のやり取りを始めたようで、私はぎょっとする。 「リィ!ガインが!」 死んじゃうかもしれない!と真っ青になりながら思ったけれど、リィは速度を緩めようとはしなかった。 「リィってば!」 この大声が理由なのか、それとも神様がそっぽを向いたのかは分からない。 後方で「待て!」という怒声のような声が上がった。さっきの美声の男の人とは全く違う声で、新しい敵かと慌てて振り向くと、やはりというべきか敵のような人がいた。 背後から追いかけてくるのは、馬鹿みたいな白い騎士服を身に纏った男の人達だ。 弓や剣を携えた男の人が10人はいる。私はほとんど泣きそうになりながら、死に物狂いで森を走った。 敵が重装備ならばよかったのに、重い鎧などは身に着けておらず、騎士服に各々腰に剣を携えただけのような装備で、鍛えられた体では私たちみたいな子供を追うことなど簡単らしい。 しかしリィも私も森を走ることに慣れている。振り払うこともできず、しかし追いつかれることもなく、数十メートルだけの距離を開け、私とリィはどこかに向かって走っていた。 どこ行くの?!と叫ぶように問えば、リィは「分からないけど!」と声を上げた。分からないのかよ!と盛大な突っ込みを入れたくなる。 同時に流れる景色に頭が鈍く痛み出した。 ―――どこかで、一度こんなことがあった。 この森を、誰かに追われて、逃げた。 途中の大きな岩、揺れる木々を、マッティの目は覚えているようだった。 どんどんと鼓動が激しくなる。心臓が、脳が、悲鳴を上げているようだった。 疲労だけが原因ではないその激しい鼓動に、私は服の上から心臓を押さえつける。マッティはいったいここでどんな命がけの鬼ごっこをしたのだ!脳裏に浮かんでは消える、マッティが経験したらしい映画さながらの逃亡劇に、私は泣きたくなった。 そうして数分間の命がけの鬼ごっこの後、私とリィはすっぱりと開けた場所に出た―――と思ったら、その先は崖というとんでもない展開に陥っていた。 そしてこれは、マッティの二度目の経験だった。 違うのは、相手がいかにも正義の味方に見えそうな、白い騎士服などを身に纏った男十数人だということである。 マッティの記憶がぐるぐると頭の中を回り、私は目を回しそうになっていた。 そうだ、マッティはこの崖から落ちたのだ。 眼下の森に、一際大きな木がある。あそこに落ちて、そして気がついたとき―――私がマッティの体に入ってしまったらしい。 この高さから落ちて生きていられることも信じられないことだが、それがきっかけで私がマッティの体に入ってしまったのは更にありえないことだ。しかし実際に起こったことなのだから、疑う余地は無い。 マッティの記憶を思い出してぐらぐらしている間に、騎士服を着たわけの分からない集団は何かを偉そうに口にした。 私はその話をほとんど聞いていなかったのだけど、リィは真っ青になってぐいと私を自分の背に庇う。 いやいやいや、崖から落ちたらどうするんだ!と私は慌てた。 マッティは生きていたかもしれないが、私はこんな高いところから落ちて生きている自身は全くない。間違いなく死ぬ! そう思ってひっしとリィの背中にしがみつくと、正面の変態たち―――私の常識でいうならば、こんな妙ちくりんな純白の騎士服なんかを着る人間は変態と相場が決まっている―――は、「大人しく捕らわれるというのなら殺しはしない」とやはり偉そうに言葉を口にした。 はっきり言って彼らに捕まらなかったら切り捨てられて死ぬか、もしくは崖から落ちて死ぬしかないのである。私は彼らの言葉をまるっと信じることにして、リィの背中に「捕まっちゃえばいいんじゃない?」とひっそり告げた。 しかしリィは彼らの言葉が信じられないのか、頷くことはない。 数秒の後、埒が明かないと思ったのか、一番偉そうなおじさんがすらりと剣を抜く。私は今度こそ目を見開いて「ちょっと待ったー!」と声を上げた。 「つつつ捕まればいいんでしょ!捕まるからその物騒なものしまってよ!」 リィを押しのけてそう叫ぶ。リィは「マッティ!」と私を庇おうとしたが、私はリィに「私のモットーは長いものには巻かれろだ!」と怒鳴りつけて、憤然と一歩を踏み出した。 リィも観念したのか私に続く。 2人仲良く犯罪者よろしく後ろ手に縄をかけられ、さっき走ってきた道を早足で降りていく。両手が使えず、物凄く不便だが、それでもマッティの体は何とか山を降りることが出来た。 山を降りながらガインはどうしただろうと心配してきょろきょろと辺りを探ってみたが、ガインの姿もレイファーと呼ばれた男の姿も見つけることはできなかった。 私は『何で異世界にやって来て王子様に出会うでもなく、女神様と崇め奉られるわけでもなく、勇者の剣を与えられるわけでもなく、こんなことになっているんだろう』と半ば泣きそうになりながら村へと連行されることになった。 転びそうになる度にリィは心配そうに名前を呼ぶ。大丈夫、と言葉を返したけれど、リィはやっぱりマッティが心配らしく、先導するおじさんにもう少し速度を緩めるように頼んだ。 しかし勿論叶えられるはずもなく、速度は緩まるどころかむしろ速められる。ほとんど駆け足状態で山を降り、村へと戻ったときには私の膝はがくがくと震えていた。 そしておおよそ1時間ぶりに連れ戻された村は、ほとんど完全に消し炭と化していて、私もリィもその光景に思わず息を飲んだ。 しかし村の人達にほとんど怪我は無い。数人が軽く怪我をしているようだが、瀕死というほどの状況の人はいなかった。 それだけに安堵して、とりあえず息を吐き出したものの、明らかに私の方は命の危機である。 殺されるのかな、っていうか今死んだら今度こそ天国行きか?などと考えつつ、私は促されるままに神殿へ向かった。 途中、村の人から心配そうな視線を向けられはしたが、言葉をかけられることはない。 彼らはこの状況がどういう状況であるかを理解しているのだろうか。私を隣国に売り渡して、この村はこれからも生贄の儀式を続けることを望んでいるのだろうか―――それならばとりあえず一人一発ずつぶん殴らせてもらってもいいんじゃないだろうか。 そう思ったものの、手に縄までかけられた状態ではぶん殴ることはできそうになかった。 「どこまで行くの?」 尋ねたけれど、答えが返ってくることはない。 いいから歩けと怒鳴られ、私は渋々口を閉じて迷路のような神殿内を歩いた。 そうして最後に辿りついたのは、随分と広いホールだった。 ホールは学校の体育館程度に広く、綺麗な円形をしている。上を見上げれば、恐ろしいくらいに綺麗なステンドグラスが嵌っている。異世界の技術というものは妙にすごいな、と私はこんなときだというのに感心した。 ステンドグラスから朝日が差し込み、きらきらと眩しく美しい。 壁や床の乳白色の石は、ステンドグラスから差し込むカラフルな色をそっと包み込んでいる。 静まり返ったホールの中には、祭壇らしきものがあって、そこに司祭様とフィンというらしき美人のお姉さんが小奇麗な姿で立っていた。 二人の姿はまさしく聖職者そのものだったが、こんなふざけたことをする人間を聖職者と呼んでいいとは全く思えない。私は二人の姿を視界に入れて、きゅっと眉を寄せた。 それから白の騎士服を身に纏った男の人が数十人はいる。彼らはホールの入り口から祭壇への道を開けて、こちらを凝視した。 彼らが妙にきらきらしい白の騎士服なんてものを身に纏っているおかげで、何だか今から異世界風の素敵な結婚式でも行われるように感じてしまう。そうすると私とリィが夫婦か、と笑おうとしたが、そうだった。私とリィは冗談ではなく夫婦なのだった。 ああそれにしても、これがヨーロッパ旅行辺りで見た光景ならうっとりしたところだが、こんな状況でうっとりできるほど、私の神経は図太くない。 じろりと主犯らしい司祭様とフィンを見やると、フィンは「まあ、二人ともそんなに汚れて。どうして逃げたりしたの?逃げなければそんなに汚れることもなかったのに」と、妖精さんのように可憐な声でそう言った。 随分とずれた発言に、しかし誰も突っ込みを入れたりしない。 リィはぎりりと奥歯を噛んで、私は「まあ、この年になってもたまには鬼ごっこが恋しくなるものだから」と負けじとずれた答えを返しておいた。 フィンは「そうなの?変わった趣味ね」と微笑んで、そうして首を傾げる。 「ガインは?私の大事な人は、どこ?」 フィンの声は甘く柔らかく、まさしく恋人を探す少女のようだった。 綺麗な服を着て微笑む彼女は、こんなことをするようには全く思えない。私は心の底から『女って怖い』と思った。 「ガインはどこ?」 フィンは困ったように眉を寄せ、私とリィを連行してきた騎士の一人に視線を向ける。 その人は戸惑うような素振りを見せてから、「レイファー様が、」と口にした。 それと同時に、計ったように高い靴音を響かせて一つの影がホールへと入ってくる。 その白い騎士服を染める赤に、思わずごくりと喉が鳴り、背中に一筋の冷や汗が伝った。 黒髪に黒目の人より少し整った顔立ちのその人は、まさしく今話に出ていたレイファーというらしき男の人のもので、フィンはその人の服に付いた赤い血を見て卒倒しそうになった。 「レイ、レイファー。ガインは?あの人はどこ?その血は何?誰の血なの?」 フィンの声に「少し怪我をさせたが死んではいない。手当てを頼んで置いてきた」と随分と乾いた声音で告げる。 彼は私にもリィにも視線を向けることなく、そのままホールの壁に背を凭れ掛けて、深く息を吐いた。 フィンはすぐにガインのところに行こうとしたけれど、司祭様の「フィン、待ちなさい」という声によって動きを止める。 フィンは今にも駆け出しそうだったけれど、司祭様の言葉には逆らえないのか、駆け出すのをじっと耐えていた。 それで今からいったい何が行われるのだろうと首を傾げる。 司祭様は「この娘が<石を創る者>です。貴国にお渡し致しましょう」と仰々しく、並ぶ騎士の一人に向けてゆっくりと頭を下げた。 頭を下げられたその人は、こつり、踵の音を響かせて一歩を踏み出す。 そうして騎士さんたちの列から外れ、祭壇に背を向け、こちらに顔を向けた。 「お、おおお……」 異世界に来たんだなあ、と実感したのはずばりこの時だった。 立っていたのはいかにも異世界にいそうな、ずば抜けて顔貌の整った美青年で、どうせ異世界に落っこちてくるのなら彼の運命の人として落っこちてきたかったと心底思ったのである。 いかにも!なきらきらしいブロンドの髪と、ブルーサファイヤのアーモンドアイに、すらりと伸びた体躯は、まさしく王子様のようだ。……というか、あれ?村から逃げるときに見た“天使の皮を被った悪魔の王子様”はこの男ではなかったか? 白い騎士服という胡散臭く面白い服装もやけに似合うその彼は、その美貌をぴくりとも動かさず、ゆっくりと口を開いた。 「この娘が魔女だという証拠が無い」 それはそうだ。 私は大きく頷く。それと同時にその人は私に視線を向けた。 その視線は、ここにエムだと豪語する友人がいたら「きゃああ」と黄色い悲鳴を上げて倒れそうなほど、冷たい視線だった。 |