第十一話 壊れゆく世界








「ちょっとちょっとちょっと!ふざけないでよ!こっちはねえ、本気で困ってるの!分かってる?!」
私が憤慨しつつ机をばしりと叩くと、リィは目を白黒させながら、それでも一応首を縦に振った。
「分かってるけど」
「けど?!けど何だっていうわけ?!」
言いたいことがあるなら言ってみろ!とリィを睨みつけると、リィは困ったように視線をうろうろさせた。
その顔にこの机を投げつけてやりたいなんて思いつつ、机の端をがっと掴む。
リィは私のその思いを知ってか知らずか、慌てて机を押さえつけた。

「だが、他にどうするって言うんだ」
リィは今度はちょっぴり眉根を寄せ、不機嫌に言葉を紡ぐ。
どうやら何故私が怒っているのか理解できず、むしろ自分は正しいことを言ったのに何故こんなに怒られなくてはいけないのだと、ムッとしているらしい。
ちなみに私としては、正しいことを言っているけれど全く女心の分からない野郎だ!と怒り狂っているのである。

「君の両親はもう居ない。他に行くところなんて無いだろう」
当然のようにそう言うリィは、かちゃりと眼鏡を外して、ポケットから取り出した布でそれを拭く。
ついでに溜息まで零されてしまった。
「だから、ここで生活すればいいと言っているんだ。ゆっくりとこの村のことなんかを思い出していけばいいと思うし」
言葉と同時に、眼鏡を掛けなおして、ポケットに再び布を仕舞った。

羨ましいほど長い睫毛に縁取られた漆黒の眼が瞬きをする。
一瞬だけそれに見蕩れたが、次の言葉に私は思わず大口を開けて固まった。
「それとも、僕から離れたくて嘘を吐いているとか?それなら、まあ……理解できるけど」
ぽそりと苦く吐き出された言葉に、私は思わず、机の端を持っていた両手を思いっきり上げた。

ガターンと激しい音を上げて机が倒れる。
リィはぎょっと目を見開いたまま、固まって私を見つめた。
「男と別れるためにこんなくだらない嘘を吐くわけないでしょうが!寝言は寝て言えこの駄目夫!安月給!」
ということで、私は今度こそ我慢できずに”駄目夫”だとか”安月給”だとかいう、旦那に言ってはいけないNGワードを口に出したのだった。
ちなみにリィの月給は安いのかどうかなんて全く分からないが、まあとりあえず言っておいた、とそういうわけである。



















翌日、私はものすごく後悔していた。
朝も早く、というかまだ夜中なんじゃないだろうかと思うほど薄暗い空の下、私はとても後悔していたのである。

たしかにリィの言動は今思い出しても腹立たしいもので、正直な話、あのときぶん殴らなかったのは我ながら大人な行動だとは思う。
思う、が。
「……机、引っくり返したからな……」
ちゃぶ台返し・イン・異世界である。殴るより非常識な行動ではないだろうか。
しかも、言うに事欠いて”駄目夫”だの、知りもしないくせに”安月給”だの……失礼なことを口走ってしまった。
どうやって謝ろうか。っていうか謝るべきか?いや、謝るべきだよね……なんて思いつつ、女は度胸だ!謝ろう!と決意して、自室のドアをバッと開ける。

そして。
ばちん!と、鈍い音が響いたのであった。
「…………」
まさか、と視線を向けた先には、人。勿論、他に誰がいるわけでもなく、リィである。
「り、リィ……!」
今から謝ろうとしていた相手に何てことをしてしまったんだ私!
真っ青になりながらリィにそろそろと近寄り、大丈夫?と声をかける。
勢いよく開けたのが悪かったのか、ドアの前にいたリィに思いっきりドアをぶつけてしまったらしい。

リィは少しばかり赤くなった額を擦り、ちょっと潤んだ瞳で私を見やった。
「…………ご、ごめん、ごめんなさい。まさかそんなところにいると思わなくて、うわあああ!ごめん、ごめん、リィ!」
本当にごめん!と声を上げた私の視界で、リィは『……大丈夫』と、ちっとも大丈夫そうでない声を零した。
「いいい、いや、だっておでこ真っ赤だし。ち、血とか出てない?本当に大丈夫?」
「平気」
少しぶつけただけ、と言葉を重ねたリィの額はちょっぴり血が滲んでいて、私は思わず『ぎゃ!』と声を上げてしまった。
血が、と手を伸ばしてリィの額に触れると、リィはぎょっと目を見開いて、体を後ろに引いた。
そして。ごつん、という鈍い音が響いたのであった。

「ちょ、り、リィ、大丈夫?」
我が家は随分と狭いので、壁に頭をぶつけてしまったようである。
さっきから踏んだり蹴ったりの―――その半分は私にも非があるわけだが――リィを見つめ、私は思わず彼の薄幸さを哀れんだ。
いきなり自分の奥さんの体に他人が入ってしまったことといい、謂れの無い暴言を吐かれたことといい、額と後頭部の痛みといい、本当に薄幸である。
それらの薄幸さにちょっぴり自分が関わっているのは認めたくない事実だ。というか九割九分九厘……いや、十割、完璧に私が関わっている。


額と後頭部をぶつけた痛みに耐えつつ、リィはひたりと私に視線を向けた。
「な、何」
たじろぎつつそう尋ねると、リィは一度息を吐き、再び私を見つめた。
漆黒の瞳。闇の、宇宙の色をした瞳だ。
吸い込まれそうなそれに一瞬見蕩れた私に、リィはひたりと視線を合わせ、一言『ごめん』と言葉を紡いだ。
「は、あ?え?ごめん?」
何でリィが謝るんだろうと不思議に思った私から視線を逸らし、リィは一度明後日の方向を向いた。
けれどすぐに再び視線を合わせ、口を開く。

「昨日は、ごめん」
謝るのはこちらの方だと、そう思った。
「ごめん。君の言ってることが信じられないとか……それもあるんだけど、何て言うか、その、」
リィが言葉の続きを紡ぐ前、”それ”は起こった。


鼓膜が破れそうなほどの爆音と、たくさんの男の人の怒声。眠っていた鳥が一斉に飛び立つ音。
濁った硝子の嵌められた窓から見えるのは、朧気な火の影。ごう、と近くの家が燃えていた。
慌てて窓を開ければ、視界に飛び込んできたのは、白いマントのようなものを纏った男の人達。訓練されているのか、微塵の隙もない動きで村の人たちを拘束してゆく。

何が起こっているのだろうと、私は眼を瞬かせた。


「―――魔女狩りだ」

リィの信じられない、と言うような声音で紡がれた言葉が我が家に響き、静かに静かに沈んでいった。