どうやら、私が今朝目覚めた場所は私の―――というか私と、私の夫であるらしいリィの家らしい。 質素、素朴、耐震強度が気になる、雨漏りはしないだろうか、隙間風は? そんな言葉ばかりが思い出す木造のこじんまりとした家をじろりと検分し、溜息を零した。 将来はシロガネーゼのような生活を送ってみたいだなんて考えたことは無いが、それでも大好きな旦那様と白い壁に赤い屋根の可愛らしい新居を……とか考えたことは少しばかりあるわけで、何だかこの現実が妙に切なかった。 見知らぬ夫に、質素な家、ついでに言えば今の私の服装は間違ってもブランドもののワンピースなんかじゃなくて、厚手のやぼったいワンピースだ。 不満を上げればキリがない。まだ若いというのに、私は人生に疲れたように、大きく深く溜息を零した。 軋んだ音を立てて開くドアの隙間から、ひょいと家の中に入る。 挨拶はこんにちはでもお邪魔しますでもない。 「ただいま……」 が相応しいのである。 入ってすぐのダイニングキッチン(こう言うと何だか立派な気がするが、実際は立派どころかかなり質素である)と、奥に部屋が二つだけ。狭い我が家にリィは一人で本を読んでいた。 部屋の隅、小さな窓硝子の傍で陽光を頼りに本を読んでいるその姿は、何だかちょっぴり神秘的だ。 私の姿を視界に入れ、本から視線を上げたリィが『おかえり』とぼんやりした表情で告げるのを眺め、私はぐっと拳を握った。 「ちょっと、もしもしそこの青年、私ちょっとばかり聞きたいことがあるんだけど」 「……とりあえず座ったらどうだ?」 視線で正面の椅子に座るよう促され、私はそこに腰掛けた。 質素な木のテーブルを挟んだ向こうにリィも腰を下ろす。 それで、聞きたいことって?と尋ねられ、私はリィに向かって口を開いた。 「私―――じゃないな、”マッティ”って、誰?」 ここを知らなくては、私は何もできない。 彼女の体を奪い、彼女の生活の全てを奪った私は、まずは”マッティ”とは何者なのかを知らなくてはいけなかった。 彼女の過去や、これからするべき生活を知らなくてはいけなかったのだ。 「不思議なことを聞く。君は君だ、他の何でもない」 不可解そうに眉根を少しだけ寄せたリィ。私も同じく少しだけ眉根を寄せた。 ああ、もう、面倒なことになってしまったものだ。 彼は私の旦那様なのだという話だし、それならば彼には絶対に理解してもらはなくてはいけない。 私がマッティじゃなくて、ただその体を借りただけの他人なのだと。 けれどそれを説明するのはひどく気の重い作業だ。 やっぱりあの三人にそう思われたように、嘘を付いているのかと疑われるか、気がふれたのかと思われるのだろうか。 そう思いながらも、口を開く。説明しないわけにはいかない。 もし私が今後彼と暮らしてゆくのだとしても、彼と別れるのだとしても、とにかく今起こっていることを話してしまわなければどうにもならないのだ。 私は溜息と共に、あの三人にしたのと同じような内容の言葉を吐き出し、連ねていった。 「……君にしては冗談が上手だな」 ええい!またか!と苛立つ心を落ち着けて、本当だと低い声音で言葉を返す。いい加減、拗ねたくなってきてしまう。 リィは考え込むように視線を伏せ、腕を組んだ。 「……信じられない話だな」 「そう言っても本当なんだから仕方ないでしょ。だいたい信じられないのは私も同じだし、こんなくだらない嘘をつく理由もメリットも一つも無い」 「まあ、そうだけど」 それでも信じられない、と私に胡乱な視線を向けたリィ。 私はちょっとむかむかしながら、はあ、と溜息を吐いた。 「だから、信じてくれなくてもいいけど、これからどうするべきか決めるべきじゃない?」 「どうする、とは?」 不思議そうに首を傾げたリィにちろりと視線を送り、もごもごと口の中で言葉を紡ぐ。 「だって、私はリィの知ってるマッティじゃないわけだし、私にとってはリィって今日始めて会った人ってだけだからいきなり夫とか言われても困るし、……リィだって困るでしょ?」 ね?と確認するようにそう言葉を押し付けると、リィは一瞬表情を凍らせて、そうしてから苦い表情を浮かべた。 そうしてから深く深く溜息をつき、こくりと頷いた。 「分かった」 分かってくれたか、だったら今後についてちょっと話合おうじゃないかと告げようとして、私は固まった。 「君は確かにマッティじゃない」 分かったのはそこか、と思わず突っ込みそうになった。 「分かってくれてどうも。それで、今後のことなんだけど」 とりあえず離婚でも、と持ち出そうとした私は、リィの次の言葉に耳を疑った。 「このまま暮らそう」 「うんそうこのまま…………って、何言ってるの!今分かってくれたって言ったのに!何でこのまま暮らすことになるわけ?!」 混乱したまま喚き散らすと、リィは私に乾いた視線を送ってきた。 呆れたような、苦いものでも吐き出すような、何だか物凄く微妙な表情である。 「僕は今まで君と特に夫婦としての生活を送っていたわけではない。食事を一緒に摂ることもまれだったし、勿論寝室は別々だし、会話なんてほとんどなかったし……きっと彼女はこれからもそのつもりだったと思う」 は?と思わず大口を開けた私を見つめたまま、リィは喉を潤すために冷えたお茶に手を伸ばした。 その指先は白くて細い。私は思わずその白魚のような手に見蕩れてしまった。 「だから、僕は別に君とこれから暮らしていくことは苦にならない。今までと同じようなものだし」 「……ど、どういう意味?」 「これから君がどうすればいいか、という話だろう?だから、ここに居ればいい」 「は、いや、あの」 「ああ、君の両親はもう他界しているから実家に戻ることは無理だよ」 さらりと紡がれた一言を耳にし、私は思わず椅子から立ち上がった。 ―――た、他界?! 「他界?!し、死んだってこと?!」 「そうだ」 またまたさらりと肯定されて、私は混乱したまま思考を働かせた。 いや、別に困ることは無いような気もするが、けれど一応私……というかこの体の持ち主さんの両親は他界しているというのはどうも寂しいというか、でも両親にまで妙な視線で見られるくらいなら、いなくてもよかったような…… と、そこまで考えて、私はリィをじっと見つめた。 「……って、リィは、自分の奥さんがこんなわけの分からない状況に陥ってるっていうのに、それしか言うことが無いわけ?!」 私の大声はビリリと空気を震わせた。 なんて夫なのだ!と、私は心の中で激怒した。 こともあろうに、一応私の夫ともあろう男は、まあ別に適当に暮らせばいいんじゃないだろうかと提案したのである。 『きっといつか記憶が戻るよ。僕はそのときをいつまでも待っている。愛してるよ、ハニー』とか『君が記憶を失ったのはとても辛い。このまま一緒に居ても互いに傷つくだけだろうから、別れよう』とか、まあその内のどちらかの言葉を予想していた私にとっては、目の前の夫が紡いだ言葉が本当に信じられなかった。いや、ハニーはないだろうけど。 ―――この駄目夫! そう言うべきか、私は悩んだ。 |