第九話 真実と現実の間








「……変な部屋」
私は首を傾げて、そう呟いた。

ミルク色の石の壁で囲まれた、前方に大きな窓がある部屋。その大きな窓に嵌められた硝子は何だかちょっと濁っていて、あまり高価くはなさそうだ。。
こんなところにまでかけている金はないということだろうか、うんまあ外から見た分にはたしかに綺麗だったしなあ、外面がよければ内面はまあ適当でいいかということなんだろうか。
神聖な場所で俗世に塗れたことを思いながら、んん、と喉を鳴らした。
息が上手にできないような気がする。

―――空間が、狭い。まるで四方から壁が迫ってきそうだ。

重い空気のせいで肺が圧迫されているような感覚がして、思わず息を詰めた。
ぷんと漂う甘い香り。小さな机の上に置かれた花瓶に視線を移すと、あのピンク色の華がそっと飾られていた。
くらくらするような香りが嫌で、窓を開けてもいいですか、と尋ねる。
二人から了承を得て窓を開け放って、私はやっと大きく深呼吸をした。

「っはあ……」
うう、この青臭い木々の匂いでさえも愛しくて仕方ない。
私はそう思いつつ、すーはーすーはーと深呼吸を何度も繰り返し、最後に伸びをした。
「それで、あの、司祭様が何のご用なんですか?」
不思議に思ってそう尋ねたとのと同時に、計ったように私達が入ってきた扉が開かれて、昨日のロマンスグレーなおじさんが部屋に入って来た。

昨日と全く同じ、私のセンスで言えばコスプレとしか思えないような服装。
白っぽく、しかも馬鹿みたいに長い布をたらりと前に流してあって、あの虹色の布のベルトが巻いてある。そのベルトには石がところどころに縫い付けられていて、陽光を反射するとキラキラして綺麗だ。
妙な服装。けれど、ま私かに”聖職者”っぽいなあ……なんて思う。

そのおじさんは昨日の焦った様子とは異なり、ひどく穏やかな雰囲気で私達に席を勧めた。
どうも、とお礼を言って椅子に座ると、おじさんは『それで』と柔らかな声音で昨日までのことを語るように私に告げたのだった。


説明下手で、小論文が大の苦手の私の言い分は、こうだ。

―――ですから!私は受験を目前にした女子高生というやつで、今日も今日とて勉強に精を出していたわけなんですけど、何かいきなり地震が起こったみたいなんですよね。まあ地震ってやつはいつもいきなりなんですけど、まあ今回の地震もいきなりだったわけです。それで箪笥が私にぶつかってきたので、ああこれは死んだかなあと思っていたんですけど、気が付いたらものすごく大きな木の下でぼろっぼろになって倒れてたんですよ。それで、ああなるほどここが天国かと思って、とりあえず一人は嫌だったんで人里でも探そうということになったわけです。それでその木を離れて数分後、何だか妙な犬に追いかけられまして、それで天国に来てまで何でどうしてこんな運動を!と泣きそうになったわけです。で、ガインと会って、一緒にここまで降りてきて、いろいろあって今に至ると、そういうわけなんです。私としては俗に言う入れ替わりだと思うのですが、どうでしょう。それとも新手の記憶喪失だったりするんでしょうか、妄想病とか。


というようなことをつらつらと語った私。
小難しい顔で私の話を聞いていた三人組。
皆同時にこくりとお茶を飲んだ。疲れたのである。
「……冗談にしては、よく出来ているとは思うが」
冗談じゃ無いんですけれど、と突っ込みたいのを我慢して、言葉を促す。
おじさん―――まあつまりは司祭様は肘を机に置き、手を組んで、私をじっと見つめた。
その瞳には勿論疑惑が浮かび、怪訝な色が滲み、奇妙なものでも眺めるようなものだったが、その他にも薄らと滲んだ色があった。
まるで、赤い狂気のようだ。
そう思うほど、奇妙な瞳で見つめられた。

「?」
どうしてそんな目で見るのかと、疑問に思う。首を傾げ、私もひたりと見つめ返す。
たっぷり一分ほど経ってから、司祭様は私から視線を外し、次いでガインに視線を向けた。
「ガイン、」
お前はどう思う?と尋ねるような声音に、ガインは眉を顰めて私を見やり、ひょいと肩を竦めた。
「冗談言ってるような雰囲気じゃねえだろう。だいたい、マッティはこんな口のききかたはしないし、こんなに饒舌でもない。……多分、頭でも打ったんだろ。マッティの言うとおり記憶喪失か何か、その辺だな」
だろう?と確認するようにお姉さんと司祭様に視線を送ったガイン。

ガインの視線に促されたように、お姉さんが戸惑いつつ口を開く。
一度躊躇うように視線を彷徨わせたあと、彼女は控えめに言葉を紡いだ。
「マッティ、あの、……本当に?」
本当に全て忘れてしまったの?と、彼女は司祭様と同じ、奇妙な瞳で私を見つめた。










「ガイン、結局何だったの?」
さっきの妙な尋問は、と尋ねると、ガインは溜息を零してから私の頭をくしゃりと撫でた。
「お前は気にしなくていいんだよ」
投げやりな、けれどひどく暖かい言葉。私は『ふうん』と頷いておいた。
その返事を聞いて、ガインがあからさまに眉根を寄せる。
「なあ、マッティ。本気で覚えてないんだな?本当に?」
「覚えてない」
何度言わせるんだ、と不機嫌になりながらそう返すと、ガインは苦い表情で『そうか』と頷いた。

結局、今の私は”記憶喪失、というか記憶が混乱してしまっているマッティ”ということになってしまった。
元いた世界の話はただの妄想と片付けられて、今までの記憶は全て失ったものとされている。
三人ともまだまだ納得できない部分があるようだが、それでも今日はこれ以上話しても意味がないと判断され、私とガインはぽいとあの神殿から放り出されたわけである。

「ガイン、ねえ、二人とも変な顔してた」
「はあ?」
何言ってるんだ、と怪訝な視線を向けられ、ちょっと考える。
ガインもほんの少しそういう顔をしていたのだけど、言ってもいいものだろうか。
「二人とも疑ってるみたいだった」
「そりゃそうだろ、信じられるか。そんなこと」
ガインは決して私が嘘を付いているとかそういうことを言いたいんじゃなくて、ただ単に自分の中で納得がいかないだけらしい。
言葉の端に、そんな色が滲んでいた。

「そうじゃなくて、」
そうじゃなくて、の次の言葉が見つからない。上手に表現できないのだ。
「そうじゃなくて?」
ガインが繰り返し紡いだ言葉がするりと耳を通って抜けていく。
「あの、うーんと、」

まるで私には絶対に忘れちゃ駄目なことがあって、けれど私がそれを忘れてしまったような。
それを私が覚えていないことが信じられなくて、けれどそれに安堵して、やっぱり疑わしく思ったのか、二人とも奇妙に歪んだ表情を浮かべた。
言葉の端や、こちらを見つめた瞳から覗いた淡い狂気が、どうしても忘れられない。
ああ、ぞわぞわしてきた、と腕を擦る。
ガインが『寒いのか?』と上着を差し出してくれたが、私は首を振って、ガインを見上げた。

ガインは、私が『覚えてない』と言った時、たしかに何かに安堵した。
ほう、と隣で小さな息が零されたことを、私は覚えている。
私はガインを見上げ、口を開けた。

「ガイン、私は何を知ってたの?」
この言葉に、結局ガインは何も答えてはくれなかった。