第八話 森に聳え立つ塔








「おい、リィ、お前は自分の女にどういう教育してんだよ……!」
「僕が知るわけないだろう!だいたい、マッティがあんなこと言うか!トイレの場所だって分かって いるはずだろう?!」
半ば叫ぶような言葉を、私はちょうど部屋のドアをノックしようとしたところで、耳にした。
多分前者はガインで後者はリィだろう。そう判断して、とりあえず扉の前で話し合いが終わるの を待機する。

二人とも何をそんなに恥ずかしがることがあるのだろうか、と疑問に思った。
トイレって言ったことがそんなにまずかったのだろうか?まさか頬を染めつつ『花摘みに……』とか 言うべきだったのだろうか?
そんなことを考えながらぼんやりしていると、玄関の方から何やら声が聞こえた。
大きなノックの音と、高めの声。どうやらお客さんのようである。
どうしたものか、と考えて、扉の向こうでぎゃーぎゃーやっている二人にわざわざ何かを言うのも 面倒なので、結局は自分が玄関に向かったわけである。
面倒だなあ、っていうか誰の家なんだろう、ここ。なんて首を傾げながら。







コンコンコンコンうるさーい!と怒鳴りつけたくなるのを我慢して、どなたですかー?と声を かける。
扉の外の誰かは一瞬沈黙して、それでも作ったような声を上げた。
「マッティ?あの、私だけど、ガインは?いる?」
「ガイン?えーと、いますけど」
私さんって誰?と眉をしかめて、すぐに思いついたのはあの美人さんだった。
呼んで来ればいいのか、それとも彼女を家に入れればいいのか少しだけ悩んで、とりあえず玄関の ドアを開けた。
「おはようございます。えーと、呼んでくるので、ちょっと待っててください」
ぺこりと頭を下げてそう告げて、部屋に向かおうとして、やっぱりやめた。
すうっと大きく息を吸う。
「ガーイーン!お客さーん!」
私はそう、大声を上げた。





「だから何でさっきからそんなに怒るわけ!」
私の大声にすっ飛んできたガインは、まず私の顔を見るなりむにゅっと頬を引っつかんできた。
それに怒った私がガインに一発蹴りをいれ、お腹にも一発拳を入れてやろうとしたその瞬間、 今度はリィの『マッティ!』という声が聞こえて、仕方ないのでお腹に一発だけはやめておいて やった、というわけである。

お茶を入れてくれるのは、あの美人な女の人だ。
お湯を沸かしているその後姿を見やって、次に不機嫌そうなガインに視線を向けて、最後に リィに視線を落ち着ける。
真っ黒の瞳が、すごく不思議だ。だって今まで見たことのある黒い目と言えば瞳は周りが茶色っぽくて 真ん中だけ黒いのに、リィの瞳には黒以外の色は見当たらなかった。

「……何だ?」
「別に、」

リィの訝しげな視線に、何でも無いけれど、と答えて椅子の上で体育座りをしようとすると、今度は 真っ青になった美人さんに『マッティ!』と叫ばれる。
半ば悲鳴のようなそれを聞いて慌てて座りなおすと、ものすごく苦い表情をした2人と泣きそうな 表情をした美人の視線を感じて俯く。……何故みんなそんな表情をするのだ。
椅子の上での体育座り。それはちょっとした癖だったのだが、これからは絶対にやらないようにしよう と嘆息した。
本当にいろいろ面倒くさそうな世界に来たものだ、と肩を落とした私を見て、3人とも呆れたような 溜息を吐いたことは言うまでもない。

何だか落ち着かないなあ、とそわそわしていると、机の上に紅茶のような飲み物を置かれたので、それに 手を伸ばした。
ぷん、と甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
「あのね、マッティ、司祭様がマッティに会いたいんですって。出られる?」
「……別に大丈夫だけど」
することもないしな、と一つ頷いて、目の前の美人さんが淹れてくれたお茶を啜る。
何かの花の匂いと、ほんのりと甘い味。……何だか、あまり好きな味じゃない。香水を飲んでいる みたいだ。

あの、ピンク色の妙な花の匂いによく似ている。
そう思うと、ますます飲む気が失せてきた。
一口しか飲んでいないし、残すのも失礼だとは思ったけれど、これ以上この変な匂いのお茶を体内に 突っ込むというのは気分が悪い。
申し訳ないとは思ったが、まだたっぷり入っているお茶をカップに残したまま、私は席を立った。

“しさい”様っていうのが誰かは知らないけれど、さっさと会って何のものかは知らない用事を 済ませてしまいたい。そしてもう一回寝たい。
「もういらないの?」
「えーと、うん。ごめんなさい。あんまり喉渇いてない」
おいしくない、とは言えずにそう誤魔化すように告げると、美人さんは少し眉を顰めた。
気に障ったのかもしれない。
「でも、マッティ森から戻ってからほとんど何も口にしていないじゃない」

そう言ったときの美人さんの言葉には心配だという感情の代わりに、不愉快そうな感情が滲んでいて、 ちょっと困ってしまう。
だって、これ、おいしくない。変な味。変な匂い。……気分が悪くなる。
何でガインとリィはあんなに普通に飲めるんだろう。そう思ったとき、ガインと視線が合った。
困った顔をしていた私を見て、少しばかり眉根を寄せたガインは美人さんに視線を移す。
「別にマッティがいらねえならいいだろ。そんな無理して飲まなくても。薬だっていうんなら別 だけど、茶ァなんだし」
なあ?とリィに同意を求めて、ガインは空になったカップを机に置いた。そうして席を立つ。
「司祭だろう?―――俺も行く」
ガインはぎゅっと眉を顰めて、すごく真剣な顔で、そう言った。
お姉さんのぎょっとしたような、戸惑ったような表情を撥ね付けるように。





「“しさい”様って司祭様か……」
私は目の前に聳え立つ、乳白色の石の建物を見上げながらそう呟いた。
今までの日常で”司祭”なんて単語使わなかったので意味が分からなかったけれど、そうか司祭かあ。 なるほどなるほど、と一人で納得しながら、石の扉を潜った。

まずそこにあるのは、こじんまりとした部屋。
馬鹿でかい塔の受付みたいな場所が何故こんなに狭いんだろう、とちょっと考えてみて思いついたのは 『敵の内部進入を防ぐ』という理由かなあとも思ったけれど、でもここが神聖な場所なら別に敵も 何も無いだろうと首を傾げる。
―――じゃあ、何のためにこんな小さな出入り口しか作らなかったんだろう。
設計者が馬鹿だったからかな、と勝手に納得してうろうろ視線をさ迷わせながら奥へ奥へと進んでゆく。
同じような乳白色の壁。たまに壁にかけられた宗教画みたいなものや飾られた花だけがさっき居た場所と違うのだと 教えてくれるが、だんだん頭がくらくらしてきた。
こんなところで働ける人を心底尊敬する。私は絶対に迷う自信がある!と前を進むガインの腕を 引っ掴んだ。
「酔う!」
という一言と共に。

ガインは一つ頷いて、『たしかに酔うな』と手を引いてくれた。
ごつごつしている手はたしかに男の人のもので、ちょっとばかり恥ずかしくもなったが、でもまあ ガインだしいいか、とそのまま手を引いてもらうことにする。
何となく、ガインは信用してもいい人のような気がする。何となくだけど。
ちょっと理想的なお父さんだよなあなんてこっそり考えつつ、私達一向はやっと目的の部屋へと 辿り着いたようである。
美人さんが、ゆっくりと扉を押し開けた。