第七話 森に眠る歪な石








ゆっくりと瞼をあけると、視界に色が滲んでゆく。
質素な部屋の硬いベッドの上、私はそっと眠りから醒めた。
どこだ、ここ、と辺りを見回して誰かの家らしいと理解して、のそのそと身を起こす。
多分、何とかっていう世界の何とかっていう村に、戻ってきちゃったんだろう。
病院のベッドの上で懇々と眠っていた自分を思い出して、ちょっと背筋が寒くなった。

やっぱり私、死んだんだろうか。でも、あれ……生きていたよね、私。 植物状態とか、そんな感じだった気がする―――そこまで思って、ぐっと伸びを一つ。
ベッドの上で思いっきり背中を伸ばして、くう、背中が痛い、と眉を顰める。
そうしてから私はやっと、ドアの近くに置かれた小さな丸椅子みたいなものに 座りながら眠っている誰かに気づいた。
……誰だ、あれ、と眉をひそめて、首を傾げる。

「ん?んん?」
ガインじゃない。たしか、眠る寸前に見た黒い人だ。
声がやたら静かで落ち着いていて、眠くなるような声だった。
とりあえずベッドから降りようとして、同時に襲ってきた鈍い痛みに頭を押さえた。
「たっ」
たんこぶか何かできているのかもしれない。すごく痛い。腫れてる気がする。
涙が滲んで、目をこする。
頭は痛いが眠気はすっ飛んだので、しっかりとした足取りでベッドから降りて立ち上がった。

椅子に座りながら、壁に凭れて眠る男の人。
自分が着ているクリーム色の色褪せたワンピースみたいなパジャマの上に、厚手のショールのような ものを巻きつけて、彼の元へ向かう。
とは言ってもそれほど広くはない部屋なので、3歩くらいで彼に触れられるほどの距離まで近づいた。
足を組んで、ついでに腕も組んで、小さな寝息をたてて眠っている。
ふうむ、と彼を眺めて、邪魔そうに顔にかかる髪をそっと退ける。
羨ましくなるくらいのすべすべの肌に、長い睫。彫りはあんまり深くなくて、日本人っぽい。
それなりに整ったといえる容姿だった。

ところでここはどこなんだろう。多分誰かの家だとは思うんだけど、外からこの村を眺めたときにも思ったが、私が今まで住んでいた住宅とは違いすぎる。
壁だって床だって天井だって全部木だ。耐震強度はどうなんだろう、と少し心配になってしまう。
だいたい隙間風とか入ってきそうじゃないか、と眉をひそめた。
ちょい、と眠ったままの彼の服の裾をつまんで、引っ張ってみる。
とりあえずトイレに行きたいんだけど、どこにあるのか分からない。起きてくださーい、と小声で 声をかけた。
んん、という声を漏らして、目を擦るその仕草はちょっとだけ可愛い。

「……ちょっと、あの、起きて」
「―――起きてる。起きてるから」
そう言いながらも、再び眠りの世界に引き込まれそうになった彼を揺さぶりながら、今度は遠慮 なんてせずに『起きてって言ってるでしょ!』と大声を上げる。
窓の外で鳥が鳴いた。

大声はなかなか堪えたようで、彼は眠そうに小さくあくびをして、まだ夢の世界に半分足を突っ込んだような表情で私を見つめた。
「……もう起きたのか?まだ、眠ればいいのに」
自分が眠いだけだろう、という突っ込みは置いといて、口を開く。
「トイレはどこですか」
「……は?」
「だから、トイレです。トイレ」
自然的欲求を満たしたいのです、と心の中で呟いて、パチパチと瞬きを繰り返す彼に『どこですか』 と再度尋ねた。

「っ……!」
かあ、と顔を赤くして、意味の無い口の開け閉めを繰り返す彼に訝しげな視線を送り続けると、 突然ドアが軋んだ音をたてて、開く。
「うおっと!マッティ、起きたのかよ!って、お前突然寝るなよだいたいあんな豪快な寝方する馬鹿 がどこに居るんだよお前しか居ねーよ!……って、リィ?何?顔赤いぞ」
ガインの言葉にバッと顔を背けて、あらぬ方向に視線をやった彼を、ガインは不思議そうに見つめて 首を傾げた。
どうしたんだ?と問うような視線を向けられて、さあ?と肩を竦めてみせた。
「何だよ?そりゃまあ……マッティ、その格好で人前に出るのはやめとけよって言いたくなるけど、 今はいいだろ?別に。お前しか居なかったんだし。夫婦だし」
なあ?とこちらに視線を向けてくるガインを、私は呆然と見返した。

―――ふ、夫婦?

「ふ、夫婦、夫婦って、あの?え?結婚した男女のこと?奥さんと旦那さんの関係?私が? わ、私が……っていうか、私と、この人が?」
この人、のところで顔を真っ赤にしながらそっぽを向いていた彼を指差す。
冗談でしょ、って誰かに突っ込みたくなった。
私が?私が結婚?ちょっと待て、ちょっと待ってよ!って感じだ。
だってこの人、そりゃ、神経質そうながらもまあそれなりに優しそうだけど、でも!何で!うそでしょ!

「わ、私、まだ高校生なんだけど!無理無理無理!だいたい私好きな人は居ないけどかっこいいな って思う人はいたもん!サッカー部の山本君とか!このまえ教育実習で着てた先生とか!テレビで 見た俳優さんとか!ってそんなのどうでもいいけどやだやだやだよ!私まだまだ人妻なんてものに なりたくない!」
混乱した頭で思ったことを全部言葉にしてゆくと、二人は何というか非常に微妙な表情を浮かべた。

「……マッティ?」
訝しげな、声。呼んだのは、私じゃない誰かの名前。
そこではっと気づいた。

―――そうか、結婚していたのはマッティか。私じゃないんだ。

いやでも今は、私が、……マッティなんじゃないの?
きゅっと眉をひそめて、よく考える。
仕方ないから、私がどこかの世界の誰かの体に入ってしまったかもしれないような気がする、という ことだけは認めよう。
ここをちゃんと認めないと、私は一歩も進めない。認めたくないけれど、認めないといけないのだ。
うん、よし、多分、大丈夫。大丈夫じゃないけど、まあとりあえず、夢だとでも思っておこう。
「マッティ?」
ガインの声にぱっと顔を上げた。とりあえず、今自分がすべきこと、それは一つだ。

「トイレはどこですか」















「何で怒るんだろ……」
トイレはどこか聞いたくらいで怒られるなんて、この世界は少しおかしいんじゃないだろうか?
ガインもリィとかいう人も真っ赤になって怒ったけど、トイレはどこか聞けないなんてそんな 不便な世界があっていいものか!と拳を握る。
だいたいトイレが家の外にあることも、汲み取り式なことも、慣れ親しんだトイレットペーパーじゃ なくてやたら固くて厚い紙のようなもので用をたさなくてはいけないことも、かなりつらい。 最悪につらい。

できるだけトイレは我慢しよう。そう決心しながら近くの井戸で手を洗っていると、 数十メートル先の木々の根元に何か光るものを見つけて、首を傾げた。
朝露とかそんなものじゃない。何だろうと思って、恐る恐る近づいてゆく。
「……ガラス?宝石?」
それは水溜りの中、土に埋まるように、存在していた。
何の濁りも無い透明の石だ。歪な形をしていて、太陽を映しこむと虹色に輝く。
舐めたら甘いんじゃないか、と思いついて、慌てて頭を振る。私はそんなにお腹が減ってるのか! と自分が恥ずかしくなった。

多分ガラスだろうな、と思う。もし宝石だとしたら綺麗に研磨されているだろうし、原石だとしたら 石っぽいものが混ざっているはずだし。
ガラスなら何の遠慮もいらないだろうと微笑みを浮かべてポケットにそれを突っ込んだ。
最近の自分はやたら何でもポケットに突っ込むな、と少し恥ずかしく感じながら、こじんまりとした 家の扉に向かって歩みだした。
とりあえず、ガインとリィに謝罪すべきなのかどうなのかを、考えながら。