第六話 華の国と神の森








「……天国じゃない、の?ここ?」
そう言葉を紡いで、首を傾げる。
ちなみに清楚系お嬢さんは不思議そうに、ロマンスグレーなおじさんは訝しげに、ガインは 当然だと言わんばかりにこくりと頷いた。
「……じゃあ、ここどこ」
天国じゃないと言うなら、いったいどこだと言うのだ。
カタカナの名前で、こんな不思議な服を着て、瞳の色だって理解できない色ばかりで。
それなのに言葉だけは通じて。

どっと不安が押し寄せた。

目が覚めて、不思議に思うこと、たくさんあった。
見たことの無い動物に、不思議な瞳の色。それはきっと天国に来たからだと思ったけれど、そうではなかったのだろうか。

鼻がツンとして、目の奥が熱くなって、拳をぎゅっと握った。
天国じゃない、って、じゃあ私はどこに来てしまったって言うんだろう? だって、私はこんな世界知らない。虹色の糸も、それで描かれる変な模様も、知らない。
涙が零れそうになったので、慌てて袖口でそれを拭った。

―――ここは、本当に天国じゃないのだろうか。私の知らない、他の世界なのだろうか。

そんなの嫌だ。絶対違う。私は死んで天国に来たんだ!
無理やりそう思い込んで、きっとガインを睨みつける。
ここでガインを睨みつけるのはお門違いだということくらい理解しているけれど、でも、 私だってまだ齢17歳の花の女子高生!人の所為にしてしまいたいことだって、ある。



「どこ、って……何がだ」
不快そうに眉を顰めたガイン。彼のその表情を見て、散々マッティという女の子と間違えられたことが一瞬で頭の中を巡り、何かがぷつんと切れた。
「何が、じゃないよ!どこ!やだもう!ここどこ!」
バシン、と大きな音をたてて、机を叩く。子供みたいだ、とそう思ったが、止められそうにない。
「天国じゃないならどこ!私、今、どこにいるっていうわけ?!」
喚いてみても、部屋の中にいる3人は皆何も答えない。
何言ってんだ、こいつ。といったところだろうか。

「マッティ?どうしたの?あの、やっぱり森の中で頭を打ったりなんか、……神の坐す森で迷い子に なってしまったんだから、少し頭がクラクラするとか……ないかしら?」
心配そうにそう問う彼女も、その言葉に医師を、と部屋の外に居る女の人に声をかけたおじさんも、 ただこちらを見つめたままのガインも。
私の知らない誰かと、私を重ね合わせて見ている。
異世界に来たとか、死んだとか。そのどちらよりも、”私”を見てもらえないのが一番苦しい。
ひぅ、と喉が引き攣って、涙が溢れてくる。
動いたら涙が零れてしまいそうで、ぴたりと動きを止めた。


マッティ、マッティ、マッティ。何度も呼ばれた名前に、私は苛立ちにも似た感情を抱いていた。
天国でいい。『私は死んで天国に来たんだ』って、それが事実でいい。
どうしてそれを否定して他の事実を、―――まるで私が私でないと言うような事実を突きつけてくるんだろう。
自分を見てもらえないということが、こんなにも苦しく、辛いことだとは、今まで想像もできなかった。
やめて。マッティなんて、呼ばないで。そう思った瞬間、キィ、と軋んだ音をたてて、扉が開いた。
それと同時に不思議な声が投げかけられる。

「国の名前を問うているなら華の国・フィオレンテ、村の名前を問うているのならベネデットだが?言っておくが、僕はこれ以上の答えなんて持たないぞ、マッティ」

不機嫌そうな声で初めて聞く単語を2つばかり並べたのは、少年と青年の真ん中くらいの 男の人、だった。
漆黒の髪を無造作に伸ばして、神経質そうな相貌をして、長く伸ばされた前髪の間からちらりと 見え隠れする瞳が宇宙を思わせるほど綺麗な目をした人である。
何と言っても声がすごく不思議だ。
洞窟の中で聞く水音のように、静かに響く声だった。


その声に反応するように、いきなりとろんとした睡魔がどっと押し寄せてきた。
まさか、そんな、と思ったが、しっかりと石の床を踏みしめていた足や、怒りを叩きつける ようにして机に置いてあった手から、すーっと力が抜けてゆく。
気絶するのでも失神するのでも、はたまた貧血なのでもなく。
ただ睡魔というものに襲われて、私の頭はしたたかに床に打ちつけられた、らしい。
らしい、というのは目が覚めた時にガインが大爆笑と共に教えてくれた事なので、嘘だと思いたい って意味である。













夢の中で私は、真っ白のシーツの掛けられたベッドでぐっすりと眠っていた。
テレビで見るような変な機械に繋がれて、ぐーすかと眠る自分は 我ながらなんとも間抜けだ。
口を閉じろ、自分!と横になった自分に声をかけても、返答は無い。
口も開いたままだ。間抜け顔がさらに間抜けに見えるぞ、私。

『って、ここ病院だよねえ』
呟きながらぐるりと病室を見渡す。
ぴっちりと締められたカーテン。何となくそれが気になって、窓に向かった。
足元がふわふわして、何だか落ち着かない。まるで雲の上を歩いているみたいだ。
そして、カーテンに指が触れそうになった時、突然誰かの視線を背中に感じた。
さっと後を振り返る。そこには。


『……わ、私?』
そう、”私”が居たのである。
薄い黄色のブラウスを着て、膝丈のスカートを穿いて、足元にはショートブーツ。
私が天国―――じゃない、何だっけ?華の国・フィ何とか、だ―――に来てしまった時と同じ格好 をしている。
綺麗な目。真っ直ぐにこちらを見つめるその目は驚愕に見開かれていた。
私とよく似た顔、よく似た身体つき、でも、全然違う目。
色は同じ、茶色と黒。多くの日本人と同じ色。でも、全然違う、と私は思った。

自慢じゃないけど私って生きていく上でたいした苦労をした事が無い。
ご飯はお腹いっぱい食べられるし、眠る所もあるし、服だって流行の物を揃えてみたりできるし、 学校だって通える。 すごく豊かな生活を送ってきたのだ。
世界の綺麗なところばかりを見ていたわけでもないけど、汚れた部分だけ見てきたわけでもない。いわゆる普通の家庭で 生まれ育った、平々凡々な女の子というやつなのである。

でも、目の前の彼女は何だか世界の全てを拒絶しているような目をしている。
すごく寂しそうな、支えてあげたいなって思うような目を。

そんなことを思った瞬間、パッと彼女が”誰”なのか分かった。
そうか、彼女は、
『マッティ?』


ガインが大切に、愛しく想う人。さっき初めて会った男の人も、言葉はちょっとアレだったけれど、優しい目をしてた。
きっと彼女にしか向けない視線だ。柔らかで、暖かくて、ちょっとだけ寂しそうで。
2人共、きっと、絶対、マッティのことが大好きなんだ。
ちょっとした羨望の視線を向けて、むうと眉根を寄せる。

『還らないの?』
ぽつりと私が漏らした一言に、ぴくりと肩を震わせてマッティはくるりと私に背を向けた。
何で無視するの、と一歩彼女に近付く。同時に窓が遠ざかった。
『私は還りたいんだけど』
また一歩、歩を進める。彼女は私に背を向けながら嫌々と首を振るが、 私はそれに構わずにゆっくりと近付いていった。

あと一歩。

手を伸ばして、マッティに触れようとした。
けれど。

『還りたくない!』

その言葉に私の意識は空気に溶けた。
そして、再び”コンセルトクレアート―――交差世界――”に引き戻されることとなったのだ。
『ごめんなさい、でも、私、もう嫌なの』
マッティの、震えた言葉を聞きながら。