花鬘<ハナカズラ>







ダンスやお辞儀の練習が始まってしばらくした日のことだ。

歩き慣れた散歩コースをアリーと二人で歩き終え、さて部屋に戻ろうかと廊下を歩いていると、リツ様、と微かな声がかかった。
リツ様。再度、甘い鈴のような声で名を呼ばれ、振り向いた先には淡く微笑むオリヴィア様がいた。
十日ほど前に一度会ったきりの、未来の妹(仮)だったが、あまりの変わり様に思わず息を止める。
豊かな金色の髪は綺麗に結われることなく、だらりと流れていて、眠っていないのか、大きな目の下には濃いクマがあった。
熟れた果実のようだった唇も、今はカサカサになってしまっている。

先日会ったときは綺麗にお化粧していたのに、今は全くしていないみたいだ。どうしたのだろう。
ひどいやつれ具合に、病気?風邪か?と心配に思いながら口を開け閉めする。
ええと、こういうときに使う文章は―――脳内辞書を捲り上げたところで、オリヴィア様は細く乾いた指先で、そっと私の手に触れた。
女性に対して失礼かもしれないけれど、まるで枯枝のようなその指先に、更に驚いてしまう。

「おり、」
オリヴィア様、どうしたの?そう問うより先に、彼女は微笑んだまま言葉を紡ぐ。
「リツ様、お散歩に付き合ってくださいませんか?」
「お、おさ、おさんぽ?」
「ええ、少しの時間でいいのです。本当に、すこうしだけ」

オリヴィア様の様子に、『でも今からリアンに読本教室を開いてもらう予定で』とはさすがに言えず、私はこくりと頷いた。
オリヴィア様は、私の頷きを見つめて、やっぱり淡く微笑んだ。
リアンとの読本教室は毎日のことだし、オリヴィア様は「少し」と言っている。リアンには申し訳ないけれど、ちょっと遅れてしまうことにしよう。

傍に控えているアリーを見やり、「わたし、さんぽ。もうしわけありません、いう―――りあん、ほん」と単語を羅列した。
アリーは言いたいことを曖昧だけど理解してくれたらしい。
しかし、アリーの口から紡がれたのは「いけません」という一言だった。

この単語は知っている。
散歩禁止令が出ていたときに散々聞いた言葉だ。
つまり、駄目!という意味である。

「い、いけません?」
「はい、いけません」

二度目の“駄目!”に、ぱちぱちと瞬きを返す。
たしかに先にリアンと約束しているわけだし、その約束を破るのはいけないことだと思うが、オリヴィア様のこのやつれ様を見ると、散歩のひとつやふたつくらい付き合ってあげなくてはならないと思うだろう。
シュヴェルツのことや他のことで何か相談でもあるのかもしれない。
私みたいな言葉も分からない人に相談しないかもしれないが、言葉が分からないからこそ、ということなのかもしれない。
つまり電柱やぬいぐるみにでも話しかけるような、そういう意味なのかも。
そんなことを考える私の正面で、オリヴィア様はアリーに視線を向けて何か言葉を紡ぐ。おそらく初めて聞く単語だ。
オリヴィア様は相変わらずモナリザのような微笑を浮かべているが、その言葉を受けたアリーはショックを受けたように一瞬にして顔色を変えた。

「ありー?」

顔色の悪さが心配になって、そろそろとアリーに手を伸ばす。
ちょんと指先がアリーの袖に触れた瞬間、アリーはハッとして私を見つめた。
そうして、僅かに震えた声でやっぱり「いけません」と言葉を紡いだ。
二人の間でどんな意味の言葉が交わされたのかは分からないが、アリーがこれだけ駄目だというのだから、さすがにこれ以上ワガママを言うわけにはいかなかった。
未来の妹であるオリヴィア様も大事だが、いつも一緒にいてくれるアリーがこれだけ駄目だと言っているのに、わがままを言って嫌われる方がもっと嫌だ。
ということで、私はオリヴィア様にできるだけ丁寧な謝罪の言葉を向けた。

「たくさん、もうしわけありません。となり……、つぎ?いく、さんぽ、わたし、いっしょ、にわ」
本当にごめんなさい。また今度、時間の合うときに一緒に散歩に行きましょう、と言ったつもりなのだが、ううむ、我ながら文法がめちゃくちゃだったような気がする。
ちゃんと通じたかな?と心配に思いオリヴィア様を見やると、オリヴィア様は「いいえ」と何故か否定の言葉を口にした。

ううん、気にしないでー!の意味かと思ってほっと胸を撫で下ろす。
けれどオリヴィア様は「いいえ」ともう一度否定の言葉を口にして、その細い手で私の腕を掴んだ。
この細い腕のどこにそんな力が隠されているのかと思うほど強い力で腕を掴まれ、その痛みに思わず眉を顰めてしまう。
腕を引き抜こうとしたけれど、オリヴィア様の力は強く、びくともしない。

「今がいいのです。今でなくては嫌。どうかリツ様、お願いです。わたくし、このままではもう―――!」
必死と言っていいほどのオリヴィア様の様子を見て、それでもNOと言うことはできず、私はちらりとアリーを見やった。
アリーは固い表情で「いけません」と同じ言葉を繰り返す。
私は両者に挟まれ、悩んで悩んで悩んだ挙句、「すこし」と小さく言葉を口にした。

「すこし。……ありー、いけません?」

ちょっとだけだから、とアリーを見つめる。
アリーが何か―――おそらく、やっぱり「いけません」と―――言おうとして口を開いた瞬間、突然オリヴィア様から「黙りなさい!」と厳しい叱責の声が飛んだ。
その声の大きさと厳しさに思わず身を竦め、しかも何て言われたか分からないものだから、よく分からないが自分が何かしでかしてしまったのだろうかと思って慌てて「もうしわけありません!」と謝罪の言葉を口にする。
しかし、予想に反して、オリヴィア様は私ではなくてアリーを睨みつけていた。
その青い瞳はぎらぎらと光っていて、その瞳を向けられたアリーの顔色も青くなっている。

いや、アリーは何も悪くなくて!約束は破っちゃ駄目なものだし!今すぐ部屋に戻ってリアンに説明してくるからちょっと待ってて!そしたら散歩でも何でも付き合うから!
そういう意味の文章を組み立てる前に口を開き、オリヴィア様の名前を呼ぶ。
とりあえずアリーを睨むのはやめて、私とお話ししよう!という意味をたっぷりと込めて名前を呼んだはずなのに、オリヴィア様の視線はアリーから外れることがなかった。

「侍女風情が、わたくしに意見しようと言うの?」
「おり、」
「わたくしが―――後宮の女が従うのは、わたくしたちの主、シュヴェルツ様のみ。正妻であるリツ様が否といえば、わたくしも無理にとは言いません。ですがリツ様が、貴女の主が応じてくださったというのに、侍女の分際で主人に異を唱えるとはどういうつもりです!」

オリヴィア様の高い声がアリーを糾弾する。
意味はまったく分からなかったが、とにかくアリーを叱るのは間違いのはずだ。
視界の端でアリーは更に顔色を悪くさせていて、「そんな、私は―――」と喘ぐように言葉を吐き出した。
人が人に怒鳴られているところを見るのは嫌いだ。
特に、怒鳴られているのが大好きなアリーとくれば、庇わないはずがなかった。
アリーが何かとんでもないミスをしてしまったのなら、それはまあ少しくらいは叱られることもあると思うけれど、何もこんな人前で叱らなくてもいいだろう。

私は「おりびあさま!」とその名前を叫んだ。
普通のトーンで呼ぶのでは、オリヴィア様に声が届きそうになかったのである。

オリヴィア様は私の声にぴくりと細い肩を揺らし、ゆっくりと視線を私に向ける。
アリーに向けていた、憎しみでも篭っているかのような色は身を潜め、オリヴィア様の様子はどこか夢心地にも見える。

「何でしょう、リツ様?」
ふわりと花の微笑とともに、柔らかな声が降ってきた。
あまりの変わりように、驚いてしまう。変な薬とか始めたわけではないよね、と若干心配になりながら、「もうしわけありません」と言葉を紡ぐ。
オリヴィア様は私の謝罪に軽く首を振ったが、次の瞬間には再びアリーを睨みつけた。
またアリーが怒鳴られるのではないかと思い、慌てて「さんぽ!」と声を上げる。

「さんぽ、いく!」
「ありがとうございます、リツ様」
「はい。しかし、りあん、さんぽ、いく、いう……よろし、でしょうか?」

でもリアンとの約束の方が先なので、ちょっと一言だけ説明してきたいのだけど。
そう言ったつもりだったのだが、オリヴィア様にはうまく通じなかったのか、それとも聞き入れてもらえなかったのか、にっこりと笑顔を浮かべた。

「では参りましょう。青の部屋にお茶の用意をさせていますの。リツ様は花茶がお好きだとお伺いしましたので、特別な花茶をご用意させていただきましたわ。是非召し上がっていただきたいのです」
「は、はい」

意味はよく分からないが、オリヴィア様は笑顔で私の腕を引く。
アリーは青くなりながらも私を止めようとしているが、オリヴィア様の後ろに控えていたメイドさんたちに止められている。
私は慌てて「ありー!」と名前を呼んだ。
そうして私の腕を掴んだまま、庭へ向かおうとするオリヴィア様の腕を引っ張って、「わたし、ありー、いっしょ、いる!」と声を上げる。
しかしオリヴィア様は私の言葉などまったく聞こえていないかのように、「参りましょう」とだけ言って、更に強い力で私を庭へいざなう。

ちょっとやめてよ!アリーと一緒じゃないと嫌だって言ってるでしょ!未来の妹(仮)といえど、アリーと私との仲は引き裂けないぞ!と日本語で荒く叫ぼうとしたところで、「姫?」と耳慣れない声がかかった。
ぐりんと首を動かし、声の発信源を探る。

「……あ!」

名前は忘れたけど、この前シュヴェルツと一緒にいた人!一緒に森の中に散歩に行った人ではないか! いいところに!ちょっと助けて!

わたわたと手足を動かし、視線でそう語りかける。
その視線の意味を正しく理解してくれたのかどうかは定かではないが、その男の人はすたすたと長い足を動かして、オリヴィア様の正面に立った。
庭へ出る道を塞がれ、オリヴィア様はぴりっと硬い雰囲気を纏わせる。

「アーノルド様、そちらにいらしては、庭へ出られないのですが―――退いてくださいませんこと?」
「ええ、勿論。ですがまずは姫の腕を離していただきませんと。嫌がる女性を無理やりどこかへ連れ出すのは、あまり褒められたことではありませんよ。それもリツ様をだなんて、貴女が男性なら、大問題にもなりかねない」

僅かにからかいを込めた、親しげな口調だ。彼はにこやかな表情だが、オリヴィア様の声音は硬い。
彼ら二人の会話に、私は『そうだ、名前はアーノルドだった!』と思い出していた。







      


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