花鬘<ハナカズラ>







この世界では、本―――というか紙は高価なものらしい。
毎日教科書だの参考書だのに囲まれてきた現代人としては、最初はその感覚が全く理解できなかった。
だって、紙なんてものはそこら中に溢れていたのだ。お父さんの読む新聞に、お母さんが読むミステリー小説、お兄ちゃんと弟の読む週間マンガ。私も勿論少女マンガとか、読書好きの友人に教えてもらった小説を読むことがあった。
幼稚園のときには絵本、小学校に入ってからは教科書やノート、学習ワーク、中学生になったら参考書なんかも買い与えられて、街中にはラックに無料情報誌が並ぶ。
まさか紙が無限にあるものだとは勿論思ってないけれど、それでも、私たちの世界には紙が溢れていたのである。

しかし、この世界ではそうではない。
紙とはつまり羊皮紙のことらしく、本を一冊作ろうと思えば羊何頭分もの皮が必要になるのだ。それに加えて、印刷技術も発達していないので人手もかかる。綺麗な挿絵入りの本には高い絵具が必要になるし、絵師も必要になる。
というわけで、この世界では本はとんでもなく高価なものらしかった。
それでもこの王宮の図書室のような場所には壁一杯の本棚に並べられている。
いくら高価とはいっても、集まるところには集まるものなのだなぁと、そっと考える。

ということで、アリーとリアン、それから他のメイドさんたちと一緒にやってきた図書室に入った瞬間、私は思わず大きく目を見開いた。
見渡す限りの本棚には綺麗に本が陳列され、高い梯子を使わなければ取れないだろう場所にも、少し埃を被ってしまった本が所狭しと並べられている。
いったい何冊あるのだろう。何百、何千?数えられないほどの本に、ほおっと息を吐く。
本を読むのは嫌いじゃないし、同じ年齢の子よりは少しばかり多くの本を手に取ったことがあるとは思うけれど、それでも壁一面の本棚というのはやはり迫力だ。
たくさんの本に、というよりはむしろこの図書室の雰囲気に胸をときめかせながら―――だって、こんな図書室、ファンタジー映画みたいで素敵すぎる!―――、私はくるりとメイドさんたちのほうへと振り向いて口を開く。

「すてき、かわいい、すばらしい!」

図書室なのであくまで声は控えめに、けれど興奮しながらそう言うと、アリーは「リツ様は本がお好きなんですね」と微笑んだ。
“ほん”と“すき”の言葉は知っている。私はうんと頷いて、とりあえず近くの本棚に寄って、本を一冊手にとってみた。
しかし、最近文字も勉強するようになったとはいえ、こうして文字を並べ立てられるとさっぱり意味が分からない。
それでもこちらの文字とその音のとり方だけは少し理解してきていたので、ゆっくりと並ぶ文字を口にしてみた。

「あ、あーでぃ、ず……じゅ、え、おるつ」
自分で口にしておきながら何という意味の単語なのかさっぱり分からない。それでもぶつぶつと言葉を口にすると、リアンが丁寧な口調で言葉を直してくれた。
「アルディ デューエ オズ」
あ、なるほど、そう発音するのか。
リアンの綺麗な発音に頷いて、私もリアンと同じ発音を繰り返す。リアンは少し思案するように眉を寄せ、それから私の持っている本と同じものを手に取り、椅子を勧めてきた。

「はい、ありがとうございます。すわる、できる」
図書室のそこここに設置された椅子のひとつに、よいしょと腰を下ろす。
リアンはその傍に跪こうとしたので、慌てて隣の椅子を指差した。
「りあん、みなさん、どうぞ」
そう言ってメイドさん達みんなに椅子を勧めたけれど、みんなに固辞されて、ちょっと寂しくなった。そうか、同じように椅子にかけるのはアウトなのか。
これが私の部屋だったら、もしかしたらみんな椅子に座ってくれたかもしれないけれど、ここでは人目があるからなのか、決して首を縦に振ろうとしない。
少し寂しく思いながらも、仕方ないのかと諦めて、一人椅子にかけてリアンを見つめた。

おそらくリアンは文字の読み方を教えてくれようというのだろう。
今も少しは文字の読み方を理解してきているが、それでも文字を連ねた単語、単語がずらりと並ぶ文章、文章がずらりと並ぶ本に、私は少し不安になった。
どれだけ眺めてみても、文字に指を滑らせてみても、勿論突然単語の意味が浮かんだりすることはない。
正しい発音の仕方もその意味も分からぬ文字が羅列された1ページは、未知のものだ。

リアンが綺麗な発音ではっきりと、並ぶ文字を紡ぎだす。
私はその音を聞きながら、並ぶ文字に視線を落とした。うん、なんとなくだけれど、ちゃんとどの文章を読んでいるのかは分かる。
文字の形を見つめ、リアンの言葉を頭の中で繰り返しながら、私もリアンを真似て丁寧に言葉を口にした。
間違った発音には修正を入れられ、ゆっくりと知らない言葉を紡いでゆく。

―――自分の唇から紡がれる、まるで理解できないこの言葉を、私はいつか理解できるのだろうか。

勉強はあんまり好きじゃなかったけれど、今の私には言葉を覚えることは生きていくために一番必要なことだ。
嫌だとか面倒くさいだとか言っている場合ではない。
食事と同じように、睡眠と同じように、この世界で生きていくためには必要なことなのだ。


そうして、私の図書室通いが始まった。














丁寧にページを捲って、ぶつぶつと並ぶ文字を口にする。
最近では発音に修正を入れられることもなく、なかなか上手に文字を読めるようになってきた。
音を理解してしまえば、人の言葉も少しは聞き取りやすくなる。
ただし、文字を読めるようになったとはいえ、その文字がどういう意味なのかはまだあんまり理解できていない。それでも、幾百幾千の文字列を眺めていれば、今まで聞き逃していた単語の意味がぼんやりと分かってくることもある。

少しずつだけれど、それでも確実に自分の語彙が増えていくのは嬉しい。
ということで、私はこの勤勉っぷりと増えた語彙を自慢しようと、最近毎日部屋にやってくるシュヴェルツを捕まえて口を開いた。
窓の外の空は暗く、月は輝き、星は瞬く。こんな日に使える、最も素晴らしい挨拶の言葉は何だったかと考えて、ええと!勢いをつけて声を発した。

「しゅべるつ、こんばんは。きょうは、とてもすばらしい、つきよ、れすね」
「……ああ、そうだな」

小説らしきもので覚えた文章をそのまま口にすると、シュヴェルツは一瞬驚いたように目を見開く。
その驚きように口元を緩め、どうだと胸を張る。どうだ、頑張っているだろう!
するとシュヴェルツは「まだ発音が妙だが、まあよくやっているな」と言葉を落とし、一瞬悩むように視線をふらりとさせて、最後には私の頭に手を置いた。
そのまま何度か頭を撫でられて、いい気分になって、次は何て言おうか悩む。
だって、シュヴェルツに私の努力を認めてもらわなくてはならないのだ!そして散歩の範囲を広げてもらわなければ!もうお城のお庭は散策し尽くした感があるし!

そんなことを考えつつ、次に言うべき言葉を探し出す。
ええと、星が綺麗ですねとかいう文章もあったはずだ。ええと、「サディー ル ウィット(お砂糖1匙)」だったっけ?いや、それは宮廷料理の本で見た文章だったか?
うんうんと考えこむ私の頭の上で、シュヴェルツは「私は父親か?それとも兄か?」と悩まし気に呟いていたが、シュヴェルツは私のアディル(父親)でもアーディ(兄)でもないだろう。呆けたのか?

「しゅべるつ。おとうさん、おにいちゃん、ないです」
私の言葉にシュヴェルツは「そうだ」と真面目な表情で頷く。
そうしてしっかりと私と目を合わせ、聞き取りやすいようにということなのか、ゆっくりと、綺麗な発音で言葉を放った。

「私はリツの父親でも兄でもない。――― 夫だ」
「……い、“いーあ”?」

う、何度か本で見た単語だ。それに何度かメイドさんたちの口から聞いた単語である。
しかしまだ意味はきちんと理解していない。おそらく家族系の単語だろうと思っているんだけど、父親でも兄でもない……となると。
他に思いつく家族系の単語で男性を示す言葉といえば、ただひとつだ。

―――お、おとうと……!

さすがにおじいちゃんなんてことはないだろうし、これはきっと、弟という単語に違いない!
私は脳内異世界辞書に加わった新しい単語に喜びを抱きつつ、しかし内心ではかなり混乱していた。
だって、シュヴェルツが私の弟?なんという衝撃の事実!しかし、それならば今までの超高待遇も頷けるというものだ。
私は今までの出来事を思い出しつつ、なるほどそういうことだったのか、と大きく頷いた。

どうして私はいきなりこんな世界に来てしまったのだろうかと、常々疑問に思っていたが―――だって、素敵な王子様が迎えに来るわけでも、「この国を救ってください勇者様!」と伝説の剣を渡されるわけでもなかったのだから!―――、シュヴェルツが私の弟というのなら、何となく納得できないことはない。
顔の造りが大分違う気がするが、多分私が妾腹の娘とかなのだろう。
そういえば、そういうティーンズ小説を読んだことがある。普通の女の子が、実は異世界のお姫様だったというお話だ。ええとたしかお母さんが側室という立場で、けれど王様ととても愛し合っていたんだけど、それを妬んだ正妻が側室のお母さんとその子供のヒロインを殺そうと画策していて、それを知ったお母さんが「この子だけは守らなければ」と魔法を使ってヒロインを異世界に飛ばしてしまうのだ。そして月日は流れ、高校生になったヒロインはとあるきっかけで、義理のお兄さん(つまり正妻の方の子供で、王位継承者ということだ)に生まれた世界に再び召喚されてしまうのだけど……という、超王道的ラブストーリーだったはずだ。

使い古された設定ながら、キャラクターが魅力的で映画化までされたその小説を思い出しつつ、私は「なるほど」と頷く。
そういえばあの小説でも、ヒロインは王様の勝手な都合で喚び戻され、この国の誰かと結婚して早々に子供を作れとか何とか言われていたはずである。愛娘にそんなことを言うなんて、なんというくそ親父だ!と思っていたが、5巻になって、王様の内情を知って「そういう理由があったのなら致し方あるまい」とこっそり涙を拭ってしまったことを思い出す。
しかし義兄のアルフリードも素敵だったし、婚約者候補の優しげな貴族のレナードもよかったけれど、私はやっぱり騎士のガルアが一番好きだなぁと関係の無いことまで考えた。

お姉ちゃんにちゅーとかするのはちょっとどうかしてるんじゃないかと思うが、ここは異世界。外国では挨拶代わりのキスもあるというのだから、今までのちゅーだって別におかしなことでなかったのかもしれない。ついでに言えば長年会えなかった姉に出会えて、感動のあまりちゅーしてしまったとか、そういうことなのだろう。

衝撃の事実に、私は少し混乱しつつ、それでもなるべく優しくシュヴェルツの腕をぽんぽんと叩いた。
「しゅべるつ」
「……ちゃんと理解しているのだろうな、リツ」
私の態度に、シュヴェルツは訝しげに眉を寄せる。
初対面のときからあまりよい印象を持ったことはなかったが、先日は慰めてくれたし、案外いい奴だとは思う。
これが弟だと思うと、女性に対する対応などについてもうちょっと躾けねばならないとは思うが、何となく可愛く思えてくるのだから、不思議なものである。

さとちゃんとは全く違うが、シュヴェルツも私の弟なのかあ。
こちらの世界にやって来てしまって、たいへん困ったしさっさと帰りたいと思っているが、それでも血縁関係のある人が同じ世界にいると心強い。
言葉も文化も何もかもが違えど、家族は家族。
私は急に嬉しくなって、シュヴェルツの両手をぎゅうと握り締めた。

「しゅべるつ、はじめまして」
「……は?」

この世界ではシュヴェルツしか頼る人がいないのだから、よろしく頼むぞ!と言ったつもりなのだが、シュヴェルツには理解できなかったらしい。
訝しげな視線を向けられ、握り締めた手をぶんぶんと上下に振ってみせた。
よろしくお願いする!と日本語で言葉にすると、シュヴェルツは「何か妙な誤解をしているのではないだろうな」と疲れたように呟いて、けれども長い人差し指はするりと首筋をなぞる。
そのまま指は顎にすべり、つられるように上を向くと、シュヴェルツと視線が絡まった。あ、と思う。
近くで見てもびっくりするくらいに綺麗な顔が近付いて、そして。

「―――おやすみ」
「……おやすみ」

ここ最近日課となってしまった、そっと額に触れるだけのかすかな口付けに、私は呟くように眠る前の挨拶を口にした。