花鬘<ハナカズラ>







元の世界に、そして家に、家族のもとに帰れるのだろうか。

こちらの世界にやって来てしまってから数日、泣いて泣いて暴れて八つ当たりをし続けて、帰りたい帰りたい帰りたいって、声を枯らした。
もう家族に会えないなんてことは信じられなくて、信じたくなくて、そんなことを考えるのは怖くて、心臓が止まるんじゃないかと思った。
泣いて、泣きすぎて気持ち悪くなって、吐いてしまって、優しくしてくれるメイドさんたちでさえも怖かった。
おかあさん、おかあさん、と何度も呼んだけれど、勿論お母さんは来てくれなかった。お父さんも、お兄ちゃんも、さとちゃんも。

眠ったり、ものを食べたりするのも怖かった。
そういうことをするのは、この世界で生活しているのだ、元の世界に帰れないのだ、という気がして怖かったのかもしれない。
メイドさんたちは食べやすいものをと、甘いおかゆのようなものや、小さく切った果物、柔らかいゼリーみたいなものを用意してくれたし、数日間ほとんど何も口にしていなかった私は「さすがに死ぬんじゃないか」と急に恐ろしくなってそれらを口に入れようとしたけれど、それだって最初はすぐに吐いてしまった。

何とか少しずつものを食べられるようになって、たまに元の世界を思い出して苦しくなって、泣いて、メイドさんたちが怖くなくなって、しばらくそんな生活をして、けれど、人間というのは慣れる生き物らしい。
1週間が経過した頃には、私は何とか人並みに食事をしたりお風呂に入ったり、きちんとベッドに入って眠ったり―――そういう人間らしい普通の生活ができるようになっていた。
にっこりと笑うこともできるし、怒ることもできる。

けれど。
けれど、勿論、まだ全然納得できてなんかいないのだ。
これからもずっとこの世界で生活しなくちゃいけないなんて思っていないし、絶対に帰れるのだと信じている。絶対、絶対だ。
だって私、悪いことなんて何もしてない。あの幸福な世界から追い出されるほど悪いことなんて、何もしてないのだ。

―――でも。
帰れない、家族がここにいない。今、そのことは覆しようがない事実だ。
そのことを考えるとどうしても涙が出てくる。寂しい、怖い、もういやだ、と子供っぽく喚きたくなる。
しかしさすがに隣に人がいるのに、しかも夜なのに、わんわんと泣き喚くことも叫ぶこともできるわけがない。
私はシュヴェルツに背中を向け、布団でこっそりと涙を拭った。うう、涙が溢れてくる。心臓がぎゅうぎゅうして、痛い。吐きたい。

気持ち悪いよう、とゆっくり息を吐き出すと、隣でシュヴェルツが寝返りを打った気配がした。
さすがに眠った人間を起こすのは申し訳ないと息を殺すと、「…………おい、リツ?」と怪訝な声が降る。
泣いているところを見られたくないと顔を布団に押し付けると―――すまん、シュヴェルツ。このくらいの涙なら、明日の朝までにはきっと乾くはずだ!―――、女心を全く理解していないシュヴェルツはむくりと起き上がり、ぐいと私の肩を引いて布団から顔を引き剥がす。
そうして、『面倒くさいな』という表情をしたシュヴェルツとぱちりと目が合った。

「…………」

……固まられてしまった。
くそ、乙女の泣き顔を見て固まるとは何て失礼なのだ。見るな!と顔を手で覆うと、シュヴェルツは戸惑ったように私の名前を呼ぶ。
リツ?というその声は、何だか変な生き物の名前でも呼んでいるみたいだ。

シュヴェルツは私の名前を呼んだ後もしばらく固まって、おい、と困ったように声を落とした。
「リツ?どうした、怖い夢でも見たのか」
言葉が理解できれば「私は子供か!」と突っ込みの一つでも入れていただろう。
しかし今の私には言葉なんて全く理解できないわけで、私はシュヴェルツの問いには答えずに、ぎゅっと唇を噛んで泣くのを堪えた。
するとシュヴェルツはベッドの上に座り込んで、私の顔を覆う腕を外しに掛かる。

やめろ!と腕に力を込めたけれど、この世界での私の非力っぷりのせいで、すぐに腕が顔から外される。
ぎゅうっと目を瞑ると、シュヴェルツは「先程といい今といい、いったい何の夢を見ていたんだ」とたいへん困ったように言葉を零した。
そうしてからわざわざ私をお布団の間から抱き上げて、腕に抱きかかえようとする。
いやだ、とその腕から逃れようとしたけれど、シュヴェルツは「暴れるな」と静かに言って、ぽんぽんと背中を撫でてくれた。
その大きな手は、私が望んだ家族の手ではない。けれど、家族の手と同じだけ暖かい。
その暖かさに、我慢していたはずの涙が再び零れそうになって、ぎゅっと拳を握って我慢した。

―――お父さん、お母さん、お兄ちゃん、さとちゃん。

どうして私だけ、知らない世界にいるの。もういやだ、帰りたいよう。何で、どうして、私はこんなところにいるの。
子供のとき、迷子になったらお父さんかお母さんかお兄ちゃんが迎えに来てくれた。
けれど、今は誰も迎えに来てくれない。私は一人で家に帰らなくてはならないのだ。
言葉も分からない世界でどうやって!ふざけるな神様!と暴れだしそうになったが、さすがに暴れだすのは子供っぽい。
うぐぐと奥歯を噛んで耐えると、シュヴェルツは今度は「お前は本当にいったい何の夢を見たんだ」と困惑しつつ、今度はぽんぽんと頭を撫でてくる。

全くの子ども扱いに、情けないやら恥ずかしいやら、やっぱりこれはセクハラじゃないのかと悩むやらで、私はとりあえず「ううう」と可愛げのない唸り声を零した。
泣いてるところを見られた。悔しい。恥ずかしい。
そんなことを思ったけれど、それでも妙に優しいシュヴェルツの手は気持ちよく、拒みがたいものがある。
あやすように、ぽんぽんと背中や頭を撫でられて、しばらくは「ううう」と唸り声だったけれど、やがてゆるゆると落ち着いていった。
一定のリズムで背中を撫でられていると、とろとろと緩やかな眠気までやってくる。

しかも、シュヴェルツ、何かいい匂いがする。

何の匂いだろうとその肩に顔を近付けると、シュヴェルツは「人の服で涙を拭うな」と呆れたように呟いた。
何と言われたのか分からず、そのまま顔を肩のところにくっ付けると、やっぱりいい匂いがする。
この世界でもやはりというべきか、コロンのようなものがあるらしく、私もよくその手の類のものを肌に付けられる。いい匂いのものと、何でわざわざこんな匂いを……と不思議に思うような変な匂いのものがあるけれど、シュヴェルツのコロンは嫌な匂いではない。
ラベンダーの香りにちょっと似ていて、ふわふわと眠くなっていく。

「おい、寝るな。いや、寝ても構わんが、この体勢で眠ろうとするな」
シュヴェルツは何か文句のような言葉を吐きながら、それでも背中を撫でる手を止めようとはしなかった。
シュヴェルツに寄りかかったまま、うとうとし始めると、ゆっくりとベッドに戻される。
「噛み付くなよ」
何事かを囁かれ、再びベッドの上に横たえられ、布団をかけられて、私はやっぱりうとうとしながら「しゅべるつ」とその名前を呼んだ。


多分シュヴェルツはシュヴェルツなりに慰めてくれたのだろう、多分。
変態だけど、案外いいところがあるんだな。ちょっと見直した。『変態』から『ちょっと変態』くらいには格上げしてあげてもいいぞ。…………慰めてくれて、ありがと。
私はそんなことを思いながら、なるべく丁寧に「おやすみなさい」の言葉を口にした。

「はらをだしてねるなよ、しゅべるつ」

このとき、シュヴェルツは「またかー!」という表情をした。
この前もそうだったけれど、「おやすみ」の挨拶にそういう表情をするのは何か間違っていると思うぞ、シュヴェルツ。

















翌朝、私は「うっ」という妙な呻き声で目を覚ました。
ううん、何なのだ。人が気持ちよく寝ているのに、と重い瞼をゆっくりと開く。
すると私の頭の下に、何故かシュヴェルツのお腹があって、ついでに私の拳はシュヴェルツの肩に打ち付けられていた。
どうやら今の「うっ」はシュヴェルツだったらしい。眠りに落ちていたらしいシュヴェルツは、今の衝撃でばっちり目を覚ましたらしく、「またお前か……」と爽やかな朝に似つかわしくない、疲れ果てた声を落とした。

「人の腹の上に頭を乗せるな」
「ひと、なー」
寝惚けつつ、それでも最近日課となった鸚鵡返しをすると、シュヴェルツは「人の腹の上に頭を乗せるな」とさっきと同じ言葉を言い放つ。
意味が分からない、と寝惚けた頭で思いつつ、それでも人のお腹の上に頭を乗せている状態はどうも落ち着かず―――それなのに、どうして眠っているときの自分はこんなところに頭を乗せるのだろう―――むくりと身を起こした。

眠い、と目を擦ると、シュヴェルツは「通りで寝苦しいと思った」と気だるげに呟く。
喉が渇いたな、とベッドサイドを見やれば、綺麗な深緑色のボトルが目に入った。
中身は飲み物だろうかと手を伸ばすと、シュヴェルツに「飲むなこの鳥頭。昨日吐き出したのはどこの誰だ」と取り上げられる。

「……おのみもの?」
喉が渇いたけれど、それは飲み物ではないのか?と瞬きを一つ。
シュヴェルツは「そう、“お飲み物”だ。だがリツは飲めないのだろう」と眉を顰めて言い放った。
「……たべる、よい?」
え、それは飲み物なのだろう?でも飲んじゃ駄目なのか?よく分からない。
首を傾げてシュヴェルツを見つめると、シュヴェルツは一つ息を吐いて、ベッドサイドに置いてあった小さなベルを鳴らす。
同時に綺麗なメイドさんが入ってきて、何やら朝の挨拶のような口上を述べた。ちらちらと何となく聞いたことのあるような単語も混ざっているけれど、なめらかな言葉はやはり聞き取りづらい。もっと一言一言を区切って言ってくれないかと、寝起きの頭でぼんやり考える。

とりあえず喉が乾いたから、自分の部屋に戻ってアリーかリアンに“おのみもの”をお願いしてみよう。
そんなことを思いつつ、シーツの間からのそのそと這い出そうとした。
けれどシュヴェルツは「大人しくしていろ」と腕を掴んでくる。寝起きでは噛み付く元気もないし、腕を振り払うのも面倒で、ベッドに座ってぼんやりしていると、さっきのメイドさんが戻ってきた。
そうして手渡されたのは綺麗なグラスに入ったジュースだ。

「……おのみもの?」
「そうだ」
「……たべる、よい?」
「飲んでいい」
「……のむでいい?」

何かよく分からないけれど、飲んでいいらしい。
薄めのはちみつレモンみたいな味だな、なんて思いつつ、こくこくとグラスの中身を飲み干す。
ぷは、とグラスから口を離すと、シュヴェルツが「零すな」と凝った刺繍で縁取られた布を私の口元に押し付けた。
人の口に布きれを押し付けるなんて、何をするのだいきなり!と目を吊り上げれば、今度は「そもそもこの髪は何だ。昨晩は整えてあったのに、どうして一晩でここまで飛び跳ねるんだ」と今度は無遠慮にも髪に触れられる。
やめろ触るな!と暴れるのも面倒で、されるがままになりつつ飲み物をお代わりしている間も、シュヴェルツは何やら口やかましく言いながら手櫛で人の髪を整えだす。

「そもそもお前は寝相が悪すぎる。何度布団を掛け直してやったと思うんだ」
「はい、もうしわけありません、ありがとうございます」

何だか長引きそうな雰囲気だったので、はきはきとそう応える。
私の謝罪とお礼に、シュヴェルツは形のよい眉をきゅっと顰め、本当に分かっているのだろうな、と呟いた。相変わらず何を言っているのか全く分からなかったけれど、「はい」と答える。シュヴェルツは私をじろじろと見つめ、最後には諦めにも似た溜息を一つ吐いた。

「……リツ、お前、早く言葉を話せるようになれ。それともう勝手に一人で泣くな」

シュヴェルツはそう言って、少し疲れたように、けれどとても丁寧に私の額に唇を落とす。
ちょっと殴ろうかと思ったけれど、何度もキスされたせいでちょっと麻痺してきたのと、それからシュヴェルツがあんまりにも丁寧にそっと触れるものだから、握った拳を振り上げるのはやめておいた。