花鬘<ハナカズラ>







ということで、私は現在、見たことの無い建物の中にいた。
まあこの王宮内では9割9部が見たことの無い場所なのだが、この妙に男臭い空気は何なのだろう。
おそらく廊下に出してある洗濯籠からの匂いが原因なのだが、まったく!何故こんなところに放置するのだ!部屋の中に片付けるなり洗濯するなりしないか!
各ドアの前に出された洗濯籠を眺めつつ、私はソファの上に脱ぎっぱなしの靴下を見つけたときのお母さんのような気持ちで、そんなことを思った。

どうやらここは寮のような場所らしく、平屋建ての建物は奥へ進めば進むほど、妙にドアのデザインが凝っている。多分奥の方が偉い人の部屋なのだろう。
建物自体はおそらくカタカナのロのような形で建設されているらしいのだが、その一辺一辺が壮絶に長く、 やっとこちらの世界の自分の体の重さに慣れてきたとはいえ、いい加減歩き疲れてきた。

『足も痛いし』
早く外に出てアリーたちと合流したいのだが、そして外へ出られそうなドアはいくつか発見したのだが、いかんせん現在の私の腕力では僅か1センチ程度しか開かない。
ではどうやって入ったのかと言われれば、開いていたドアの隙間から入ったのだ。そして常々母に「戸はちゃんと閉めなさい!」と叱られているおかげで、そのドアをぴったりと閉じてしまったのである。
以前から家族に「もうちょっと考えて行動しなさい」と叱られたり笑われたり諭されたりしたものだが、今日ほど自分の考え無しの行動を後悔したことはない。
みんなとはぐれたと分かったときに、勝手にうろうろするべきではなく、そこで待っているべきだったのだ。迷子の鉄則である。

……まあ済んでしまったことは仕方ない。とにかく外に出るには誰か人を見つけてドアを開けてもらい、ここから出してもらうしかないのだ!
そう拳を握って決意したものの、その“誰か”が見つからないのである。
困った困った、とそれでも歩き続けると、何と行き止まり。建物の形はロではなく、コだったらしい。泣きたい!
最後の部屋のドアはやけに豪奢で、百合のような紋が描かれている。
何だろう、超偉い人の部屋なのだろうか。しかし我ながら言うに事欠いて超偉い人とは、本当に頭が悪そうに聞こえる。

どうしようかなあと悩んだけれど、もうそろそろ歩き回るのも疲れてきた。ということで、私は控えめにその部屋のドアをノックした。
仕方ない。お願いして外に出してもらおう。
ノックの後すぐに何らかの言葉がかかったのだが、意味が分からずどうしたものかと首を傾げる。
とりあえず中に人がいるのは分かったのだが、出てきてくれないだろうか。
もう一度、さっきより少しだけ大きな声でさっきと同じことを言われたが、やはりどうしようもない。
どうしようと思いつつもう一度ノックしてすぐ、やっとドアが開いた。

「もうしわけあり……」
ごめんなさい、出口まで案内してください。
そういう意味を込めてとりあえず「ごめんなさい」の意味の単語だけを口にしようとして、ドアを開けたその人を視界に入れた途端、私は口をぱっかりと開けて固まった。
そうして、思う。

―――な、何て少女の教育に悪そうな男の人なのだ!

もうそろそろ昼だというのに今起きたばかりなのか、こちらの世界での標準的な寝具らしき絹のローブの胸元をとんでもなく開けっ広げ、おへそまで見えそうになっている服装は勿論言うまでもなく教育に悪いが、顔もすごい。
すごいというのは変な表現だが、すごいとしか言いようが無い。
美形というか何と言うか、壮絶な色気があるというか、とにかくすごかった。
女の人かと見間違えるような腰まで流れる髪は眩いほどの金色で、ゆるく波打っている。瞳はエメラルドでも埋め込んだような綺麗な色だ。
目元から迸る色気はただ事ではない。ぽってりと厚めの赤い唇は牡丹の花のようで、髪と同じ色の睫毛にはちょうちょも止まりたくなるに違いない。
どこの芸術作品かと目を疑うような、とんでもない美人だった。

『す、すごい……』
思わず呟くと、その男の人は少し乱れた髪をゆっくりとかき上げて―――あ、今もわっと色気が!―――、艶美に微笑んだ。
シュヴェルツも美形だとは思っていたが、この人もすごい。物凄い。シュヴェルツって案外普通の顔をしているんだな、と思うくらいに物凄い。
「新しく入った子かな?私の部屋の掃除はしなくていいのだけど」
彼の言葉は語尾が上がっていたので、おそらく何かを尋ねられたのだろう。私はとりあえず困ったような表情を浮かべ、外に出たいのだと身振り手振りで示して見せた。
しかし彼には全く伝わらなかったらしい。首を傾げられてしまった。

困った、と腕を組むと、彼は「ふうん」とやけに色っぽい声を吐息とともに吐き出して、くいと指先で私の顎を持ち上げる。
ちょっと、失礼だぞ!と眉を顰めると、彼は「もしかしてリツ様かな?」と顎にかけていた指を外した。
紡がれた自分の名前に飛び上がり、こくこくと頷く。
彼は「ああ、やっぱり」と微笑んで、斜め下45度の視線を私に向けた。
斜め45度の視線は最も色気のある視線だと兄は熱を込めて語っていたけれど、あれは真実だったらしい。

その色気の波に押されるように思わず一歩後ずさると、そっと、けれど逃げられぬほどの強さで腕を掴まれる。
痴漢!変態!と声を上げようとするものの、エメラルドの瞳から目が離せない。こここ、これはメドゥーサか!メドゥーサだな!
ここは異世界で、どうやら魔法のようなものがあるということは重々承知の上だ。つまり、もしかしたら本気でメデューサのように目を合わせただけで人を石にしてしまうという人がいるのかもしれない!
この目を見てはいけないと、私はぎゅっと目を閉じて思いっきり飛び上がった。

『でいっ』

ごつっと旋毛あたりに鈍い痛みが走る。弟直伝の頭突きに、さすがにメドゥーサも驚いたようだ。
腕を掴んでいた手が緩むと同時に慌てて腕を振り払い、脱兎の如く逃げ出そうと一歩を踏み出す。
しかし「こらこらこら」と琵琶の音のような声で止められ、ついでに再び腕を取られた。
「ゼフィーに聞いた通りの方だな」
ゼフィーの名前に、おおっゼフィーを知っているのか!と振り向いて視線を上げると、ぱっちり、目が合う。メドゥーサ!と再び頭突きをかまそうとして、頭を押さえつけられてしまった。
さすがにメドゥーサでも頭突きは嫌らしい。私は脳内異世界辞書の欄外に、こっそりとメドゥーサは頭突き嫌い、と書き込んだ。

とりあえず頭突きはやめてやるから、腕を放しなさい、とぺちぺち腕を叩く。
メドゥーサは「さて、それにしても何故こんなところにいるのかな」などと言いながら、ゆっくりと身を離した。
少し皺になったスカートの裾をぺしぺしと叩いて直すと、メドゥーサは私をまじまじと見つめて「なるほど」と頷く。
一人で何かを納得した様子のメドゥーサに胡乱な視線を投げかけると、メドゥーサは床を指差して「少しの間、ここにいてくれるかな?」とゆっくりと言葉を口にした。

「ここ、ある?」
ここに居ろという意味か?と首を傾げると、そうだというように頷かれる。
私も了承の意を込めて大きく頷いてみせると、メドゥーサは優雅に礼の動作をとって、部屋へと戻って行った。
私はその後姿を見送って、とりあえず辺りを見渡してみた。しかし別段変わったものはない。相変わらず馬鹿みたいに長い廊下にドアだけがずらりと並んでいる。

目が回りそうだなんて思いつつ、メドゥーサを待っている時間が勿体無いので、最近始めた筋力トレーニング、パート3を始めることにした。
ちなみにこの筋力トレーニングはパート1からパート10に分かれていて、その内容はエアマラソン―――これを考え出したときは室内でしか自由じゃないかったので、その場で軽快に足踏みをするだけ、というものである―――や腹筋背筋、エアボクシング、柔軟など様々だ。
ちなみにパート3は足を開いて下半身を固定し、上半身を捻るというもので、別名ウエストエクササイズである。これで素敵なくびれを作るのだ。それプラス、胸の前で両の手の平を合わせてぐっと力を加えるというものである。こちらは別名バストアップエクササイズとも言う。
筋肉関係ねえー!とは言ってはいけない。素敵なくびれとふっくらバストは筋肉と同じほど必要なものである。特にこの世界では幼く見られがちなので、ナイスバディになって子供ではないのだと知らしめなければならぬ。
ということで、一人で筋力トレーニングパート3を行って軽く十分が経過したとき、メドゥーサの部屋のドアが開いた。

遅いではないかと思いつつ、せっせとトレーニングを行っていると、メドゥーサはまさに仰天という言葉に相応しい行動をとった。
信じられないものを見たと言わんばかりに目を見開き、たっぷりと数秒固まってから「神よ……」というように両手で顔を覆って天を仰いだのである。
しかし、寝巻きから騎士服のようなものに着替えたメドゥーサはたいへんに見目麗しい。
腰に剣を刺してあるが、偽物ではないのだろうか。剣を使う人間というよりは、むしろ劇場でキャーキャー言われる役者のように見える。
トレーニングをやめてメドゥーサをじろじろと不躾に眺めると、メドゥーサはやっと気を持ち直したのか「お待たせしましたね、申し訳ございません」とやっぱり役者のように、やけに演技めいた礼をとった。

おそらく「待たせてごめんね」の意味だろうと理解して、うむ、と頷く。
メドゥーサは小さく笑ってから、リツ様、とくすぐるような声で私を呼んだ。甘く艶っぽい声に、思わずぶるりと背筋が震える。
そんな私の正面に跪き、メドゥーサは私の左手をそっと持ち上げた。
手を取られたのが私ではなくてアリーだったらあまりにも絵になる光景だろうとしみじみ思う。
私よりもいくつか年上だろうアリーは、ふんわりと綺麗で可愛い。メイド服ではなくドレスを着てメドゥーサと並んだら、きっと素敵だろう。
メドゥーサは私に蠱惑的な笑みを向け、ゆっくりとその牡丹のような唇を開いた。

「ご挨拶が遅れましたこと、まずはお詫び申し上げます。グラート騎士団団長を務めております、シャーロット・セルロワと申しま―――」
「リツ様っ!」

メドゥーサの馬鹿長い言葉が終わる前に、聞き慣れた声で名前を呼ばれた。
いつも優しげなアリーの声は、今ばかりは引き攣って悲鳴のようになっている。アリーは「何をなさっているのですかセルロワ様!その方をどなただと思っておいでです!」と声を上げながら慌てた様子で駆け寄ってきた。
その後ろにはリアンと、そして大きな男の人が一人いる。さっきまで付いて来てくれていた騎士さんではなく、見慣れぬ顔だ。

頭の隅で「誰だあれ」なんて考えながら、迎えに来てくれたらしいアリーを見つめ、ぱっと笑顔を浮かべる。
3人が駆け寄ってくると、メドゥーサはそっと手を離して「おや、そんな怖い顔をしてどうかなさったのかな」と言葉を紡ぎながら立ち上がった。
気障ったらしく、きらきらしい仕草はうっとりしてしまうというよりはちょっと面白い。
しかしこれは観賞にはもってこいの美人だなぁなどとしみじみ思った私は、まさかこの後、本日二回目となるお説教をシュヴェルツから受けるとは思ってもみなかったのであった。

シュヴェルツのお説教癖はどうにかならぬのか、まったくもう!